大道芸通信 第370号
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自由民権運動から演歌へ
自由民権運動の始まりについて、一八七三年(明治六)征韓論に破れた板垣退助西郷隆盛等が、一斉に下野したことからとされる。征韓論については、幕末に盛んになった国学の影響を強く受けて言われ出したとされる。
版籍奉還(一八六九)=藩主は知藩事へ横滑り、家禄は十分の一としたが、藩士は士族(世襲)と平民(代限り)に分けられた。家禄については当面維持されたようだが(諸説あり)、一八七六年に金禄公債と引き換えに廃止。没落士族が続出した。廃藩置県や廃刀令(共に一八七一年)に伴い、士族の特権は徐々に失われたため、不満がたまるようになった。そんな士族の不満をそらすため、征韓論は利用された。
当初岩倉具視や木戸孝允等によって画策された征韓論である。処が、一八七一年(明治四)、彼らが遣外使節団の一員として欧米先進諸国を一年半かけて視察することとなった。その間の留守居役をしたのが、板垣や西郷である。そこで彼我の見解に相違が生じた。征韓論を推し進めようとする留守居役に対し、国内充実が先だと主張する遣外派の対立は修復しがたく、板垣や西郷等が下野することで決着した。一八七三年(明治六)のことである。
彼らの下野で、不平士族の不満は、一時に燃え広がった。翌一八七四年に起こされた佐賀の乱を皮切りに、神風連の乱(一八七六)、秋月の乱(同)とこれに呼応した萩の乱(同)と続いた。しかし何れも打ち合わせての戦いではなく、一揆的におきただけだから、皆数日で鎮圧されてしまった。だが、翌一八七七年(明治十)の西南争だけは違った。二月から九月まで、七ヶ月に亘り続いた。最後の内戦と言われる所以である。反面、武力闘争の限界を悟らされることとなった。
一方、一八七三年に西郷と共に下野した板垣退助(=後に伯爵)は、翌一八七四年、後藤象二郎(=後に伯爵)や江藤新平(=佐賀の乱首謀者、斬首後梟首=晒し首)、副島種臣(=後に伯爵)らと「愛国公党」を結成し民撰議院設立建白書を政府へ提出、高知に「立志社」をおこした。翌七五年(明治八)には大阪で全国組織・愛国社を結成するも、板垣が参議に復帰したり資金難などで、すぐに瓦解というか自然消滅したようである(この辺の扱いは諸書によって異なるため今後の課題)。
この年政府が発令したのが、「讒謗律(ざんぼうりつ)」や「新聞紙条例」(何れも言論弾圧のため発布された)
三年後(一八七八)に愛国社は再建された(とする説や、当初のものが細々と続いたので再興説もある)。 一八八〇年(明治十三)に開催された第四回大会で国会開設を求める「国会期成同盟」発足が決議さ愛国社も存続したとするものと発展解消したものと両説ある)。
何れにしろ愛国社の活動は国会期成同盟が活動を始めると表舞台からは姿を消し、期成同盟が活動するようになる。同盟の最初の仕事が『国会ヲ開設スル允可ヲ上願スル書』(明治十三年四月=認可を受けること、国会図書館デジタルで原本公開中) を提出するも不受理。反対に「集会条例」を制定し、一層露骨に妨害を加えるようになった。演説会などは事前に警察へ届け出て認可を受けることとなり、監視の警察を集会場へ立ち会わせ、政権に不都合なことは、中止・集会解散権まで持たせた。
そんななかでも翌年(一八八一)、「国会開設の詔勅」が出されると、期成同盟は解散し自由党となった。
自由党は、自由民権運動の担い手として全国に組織を広げたが、集会条例による弾圧や内紛により穏健派の離党、急進派は貧農と結びつき、直接行動を展開するようになった。
一八八二年(明治十五)の福島事件や翌年の高田事件と弾圧の強化。更には同じ民権派の立憲改進党との対立も党内の混乱に拍車をか
けた。
この現状を見て先行きに不安を感じた板垣は、解党するか党再建のために十万円の政治資金を調達するかのいずれかの選択を提議した。しかし、有力な資金提供者であった豪農層の没落が相次ぎ資金集めに失敗。一八八四年(明治十七)九月に起きた加波山事件後の十月二十九日に解党大会を開いた。その二日後に起きたのが、秩父事件(十月三十一日~十一月九日)である。
事件後、約一万四千名が処罰され、見せしめのためもあって、首謀者七名には死刑判決が下された。
演説会をすれば弾圧を受け、武力闘争にも敗北した自由民権運動家(=壮士)が、閉塞状況下での民衆への思想伝達手段として考えついたのが、「読売」によるものである。自由民権に関する時事問題を「歌=(壮士節)」に作って、人の大勢集まる街角へ立ち、大いに喧伝した。こうしてはじまった「壮士節」は、自由民権思想を普及させる手段であったから、当然のように、悲憤慷慨型が多かった。
民権論者の 涙の雨で 磨き上げたる 大和肝
国利民服 増進して 民力休養せ
若しもならなきゃ ダイナマイト ドン
演歌第一号と云われる「ダイナマイト節」がこれである。編み笠を被り、弊衣を着、腰に手拭をぶら下げ、高下駄を履いて呶鳴るように歌ったという。歌い手が自由民権壮士であったから、「壮士節」と呼ばれた。
「壮士節」やこれに続く「書生節」は、後日「演歌」に包含されるが、「壮士節」の初期について、当時の雑誌『文芸倶楽部』は次のように書く。(引用は何れも原文のまま)
《書生節の始まりは、今から約二十年ほど前、板垣伯(=板垣退助伯爵)が自由民権思想の鼓吹に熱中の結果、演説や新聞雑誌で唱道したのみでは、単に中派以上にのみ効力があって、下流に及ばないことを慨いて、裏店の宿六や井戸端会議員の山の神を動かすには読売に限るとて、腹心の壮士らを集めて、本郷金助町に、中央青年倶楽部といふを設け、自由民権に関する時事問題の壮士節を作らせて、盛んに読み売りをさしたのが、今の書生節の抑々である。が、其の目的は自由民権思想を鼓吹する政治にあったのだから、其の作物も自然慷慨淋漓悲壮を極めたものであった。》(『文芸倶楽部』明治四十三年(一九一〇)七月号。 原題「読売書生節」)
しかしながら、自由民権運動が下火になるにつれ、青年倶楽部は解散、歌風も次第に変化した。
《その後(青年)倶楽部は七年ばかりで解散し、新たに青年苦学会、青年同気会などが続生した。が、漸次、世の思潮の変移に連れて、歌風も次第に柔弱となって、遂には今(=明治43年当時)の如く、恋愛物専門となり果てたのである。》 (『文芸倶楽部』)
その前後の頃について『流行歌明治大正史』(添田唖蝉坊・知道著 / 昭和八年刊)は、次のように書いている。
《(明治)二十八年に、青年倶楽部の他に、鉄血倶楽部といふ小さな読売団体ができた。(中略)此の鉄血倶楽部が後三十年六月に青年倶楽部に合した。……
さて青年倶楽部は、絶えず蒙った圧迫の為めに、部員も段々四散して衰運に足を向けてゐた。追はれた者の中には朝鮮から満州、南洋まで飛んだ者もあった。最後まで倶楽部に居残った田村音二郎外一名が退去させられて、倶楽部のおばさん(=壮士等の世話
をした)等と共に川崎へ移って行ったが、その時は巡査二名に送り出されて行った。
そして遂に倶楽部は滅亡した。(明治)三十四年の事である。倶楽部滅亡後は、私(=添田唖蝉坊)の「東海矯風団」が、わづかに演歌の命脈であった》
(『流行歌明治大正史』)
なお「東海矯風団」は、「青年倶楽部」解散後の明治三十五年(一九〇二)に、添田唖蝉坊等(一八七二~一九四四)がおこした演歌団体。政治運動からは手を引き、生活・職業としての演歌活動に専心した。活動を担い、街角に立ったのは主に苦学生(=書生)が多かった。そのため「壮士節」と云う云い方は廃り、新たに「書生節」と呼ばれるようになった。
その「東海矯風団」には、様々な人間が出入りしていた。『唖蝉坊流生記』(添田唖蝉坊著)は云う。
《中に「渋井のばあさん」というのがあった。これは古くからヨミ(=読売)と云われる「一つとせ」の流しをやっていて、「佐野金」と云われたその方の版元からネタを取ってやっていたのだが(私はよくばあさんから西野文太郎の有礼殺しの「一
つとせ」を聴かされた)、演歌をやりたいと云ってきたのだが、ばあさんはやがてどうも演歌のこのかたくるしい文句はいけない。もっとくだけたのを作って下さいよ、と云った。私は苦笑した。そして「ラッパ節」を作った。
一篇を歴史物としたが、ここではじめて演歌に、ひき蛙やお三どんやおてん娘が登場して、後々演歌の滑稽歌といわれるものが生まれたわけだが、これがたいへんな当たり方であった。ちょうど日露講話条約が成ろうという時で、戦捷の余勢もあったが、戦争歌詞よりも、滑稽歌詞の方が一般には受けていた。私はなるほどそういうものかと思った。
今鳴る時計は 八時半 それに遅れりゃ 重営倉
今度の日曜がないじゃなし 放せ軍刀に錆がつく
トコトットット (『ラッパ節』の一部)
非常な売れ行きであった。私はどうも気がさしたので、これに限って、のむき山人と号し、東海矯風団の名の汚れのようにも思って、武井方共同出版社として発行したが、毎朝門前は市をなすの景況で、一人三百部、五百部と望むものに、かろうじて百部もしくは百五十部を渡すとそれを一時間か二時間で売り尽くしてまた馳けつけて来るという始末で、ために印刷所は夜業を続ける騒ぎであった。
これを、それまでのように武井のおやじに扱わせておいたので、武井はすっかり味をしめてしまったのだ。そして演歌のネタ元になった。
(『唖蝉坊流生記』)
ラッパ節は爆発的に流行、全国にご当地替え歌が出来た。沖縄でのものが、本土復帰した一九七二年(昭和四十七)これも爆発的に流行った『十九の春』である。
現在、演歌も絶滅危惧種である。演説を禁止されても「歌」なら文句ないだろうと、抵抗運動として始まったのが演歌である。だから当初は、護身用の杖?を持った壮士たちが、悲憤慷慨しながら怒鳴るように歌った(壮士節)。そんな演歌も時代と共に角が取れ、恋愛ものなどが増えてくると、書生(苦学生)が、学費や生活費を稼ぐため街頭に立って歌うようになった(書生節)。流行を作りながらも生活が出来ることがわかると、一般人も加わるようになり、演歌全盛期が昭和前期頃まで続く。それが、レコードの普及とギター曲の出現により、街頭演歌はみるみる衰退する。
大道芸の会会員募集
ワシントン条約は言わずもがな芸能界からさえ無視され続けられている絶滅危惧種「日本の大道芸」を一緒に伝承しませんか 稽古日は左記の通りです
●第三七〇回目 十月十二日(水(すい))
●第三七一回目 十一月九日(水(すい))
時間・午後六時ー七時半
場所・烏山区民センター 大広間(二階)
また、歴史や時代背景を学び、或いは技術を向上させたい人(オンリー・ワンやナンバー・ワンを目指す人)のために、一名から学習会や特別講習も行っています。
●日時 ・場所(随時)
随時HP掲示板(ほーむぺーじけいじばん)等で通知
編集雑記
大道芸にとって、ここ数年は逆風の時代である。イベントはなくなる、引退者や三途の川を渡る人が嫌に増えた。反面、なかなか後継者は育たない。座して死ぬのを待つか世間に打って出るか。処が処が街頭でパフォーマンスをやろうとしたら、すぐに飛んでくるのがお巡りである。「通報があった」とか何とか。変わったことをするなと、同調圧力をかけてくる。嗚呼!
自由民権運動から演歌へ
自由民権運動の始まりについて、一八七三年(明治六)征韓論に破れた板垣退助西郷隆盛等が、一斉に下野したことからとされる。征韓論については、幕末に盛んになった国学の影響を強く受けて言われ出したとされる。
版籍奉還(一八六九)=藩主は知藩事へ横滑り、家禄は十分の一としたが、藩士は士族(世襲)と平民(代限り)に分けられた。家禄については当面維持されたようだが(諸説あり)、一八七六年に金禄公債と引き換えに廃止。没落士族が続出した。廃藩置県や廃刀令(共に一八七一年)に伴い、士族の特権は徐々に失われたため、不満がたまるようになった。そんな士族の不満をそらすため、征韓論は利用された。
当初岩倉具視や木戸孝允等によって画策された征韓論である。処が、一八七一年(明治四)、彼らが遣外使節団の一員として欧米先進諸国を一年半かけて視察することとなった。その間の留守居役をしたのが、板垣や西郷である。そこで彼我の見解に相違が生じた。征韓論を推し進めようとする留守居役に対し、国内充実が先だと主張する遣外派の対立は修復しがたく、板垣や西郷等が下野することで決着した。一八七三年(明治六)のことである。
彼らの下野で、不平士族の不満は、一時に燃え広がった。翌一八七四年に起こされた佐賀の乱を皮切りに、神風連の乱(一八七六)、秋月の乱(同)とこれに呼応した萩の乱(同)と続いた。しかし何れも打ち合わせての戦いではなく、一揆的におきただけだから、皆数日で鎮圧されてしまった。だが、翌一八七七年(明治十)の西南争だけは違った。二月から九月まで、七ヶ月に亘り続いた。最後の内戦と言われる所以である。反面、武力闘争の限界を悟らされることとなった。
一方、一八七三年に西郷と共に下野した板垣退助(=後に伯爵)は、翌一八七四年、後藤象二郎(=後に伯爵)や江藤新平(=佐賀の乱首謀者、斬首後梟首=晒し首)、副島種臣(=後に伯爵)らと「愛国公党」を結成し民撰議院設立建白書を政府へ提出、高知に「立志社」をおこした。翌七五年(明治八)には大阪で全国組織・愛国社を結成するも、板垣が参議に復帰したり資金難などで、すぐに瓦解というか自然消滅したようである(この辺の扱いは諸書によって異なるため今後の課題)。
この年政府が発令したのが、「讒謗律(ざんぼうりつ)」や「新聞紙条例」(何れも言論弾圧のため発布された)
三年後(一八七八)に愛国社は再建された(とする説や、当初のものが細々と続いたので再興説もある)。 一八八〇年(明治十三)に開催された第四回大会で国会開設を求める「国会期成同盟」発足が決議さ愛国社も存続したとするものと発展解消したものと両説ある)。
何れにしろ愛国社の活動は国会期成同盟が活動を始めると表舞台からは姿を消し、期成同盟が活動するようになる。同盟の最初の仕事が『国会ヲ開設スル允可ヲ上願スル書』(明治十三年四月=認可を受けること、国会図書館デジタルで原本公開中) を提出するも不受理。反対に「集会条例」を制定し、一層露骨に妨害を加えるようになった。演説会などは事前に警察へ届け出て認可を受けることとなり、監視の警察を集会場へ立ち会わせ、政権に不都合なことは、中止・集会解散権まで持たせた。
そんななかでも翌年(一八八一)、「国会開設の詔勅」が出されると、期成同盟は解散し自由党となった。
自由党は、自由民権運動の担い手として全国に組織を広げたが、集会条例による弾圧や内紛により穏健派の離党、急進派は貧農と結びつき、直接行動を展開するようになった。
一八八二年(明治十五)の福島事件や翌年の高田事件と弾圧の強化。更には同じ民権派の立憲改進党との対立も党内の混乱に拍車をか
けた。
この現状を見て先行きに不安を感じた板垣は、解党するか党再建のために十万円の政治資金を調達するかのいずれかの選択を提議した。しかし、有力な資金提供者であった豪農層の没落が相次ぎ資金集めに失敗。一八八四年(明治十七)九月に起きた加波山事件後の十月二十九日に解党大会を開いた。その二日後に起きたのが、秩父事件(十月三十一日~十一月九日)である。
事件後、約一万四千名が処罰され、見せしめのためもあって、首謀者七名には死刑判決が下された。
演説会をすれば弾圧を受け、武力闘争にも敗北した自由民権運動家(=壮士)が、閉塞状況下での民衆への思想伝達手段として考えついたのが、「読売」によるものである。自由民権に関する時事問題を「歌=(壮士節)」に作って、人の大勢集まる街角へ立ち、大いに喧伝した。こうしてはじまった「壮士節」は、自由民権思想を普及させる手段であったから、当然のように、悲憤慷慨型が多かった。
民権論者の 涙の雨で 磨き上げたる 大和肝
国利民服 増進して 民力休養せ
若しもならなきゃ ダイナマイト ドン
演歌第一号と云われる「ダイナマイト節」がこれである。編み笠を被り、弊衣を着、腰に手拭をぶら下げ、高下駄を履いて呶鳴るように歌ったという。歌い手が自由民権壮士であったから、「壮士節」と呼ばれた。
「壮士節」やこれに続く「書生節」は、後日「演歌」に包含されるが、「壮士節」の初期について、当時の雑誌『文芸倶楽部』は次のように書く。(引用は何れも原文のまま)
《書生節の始まりは、今から約二十年ほど前、板垣伯(=板垣退助伯爵)が自由民権思想の鼓吹に熱中の結果、演説や新聞雑誌で唱道したのみでは、単に中派以上にのみ効力があって、下流に及ばないことを慨いて、裏店の宿六や井戸端会議員の山の神を動かすには読売に限るとて、腹心の壮士らを集めて、本郷金助町に、中央青年倶楽部といふを設け、自由民権に関する時事問題の壮士節を作らせて、盛んに読み売りをさしたのが、今の書生節の抑々である。が、其の目的は自由民権思想を鼓吹する政治にあったのだから、其の作物も自然慷慨淋漓悲壮を極めたものであった。》(『文芸倶楽部』明治四十三年(一九一〇)七月号。 原題「読売書生節」)
しかしながら、自由民権運動が下火になるにつれ、青年倶楽部は解散、歌風も次第に変化した。
《その後(青年)倶楽部は七年ばかりで解散し、新たに青年苦学会、青年同気会などが続生した。が、漸次、世の思潮の変移に連れて、歌風も次第に柔弱となって、遂には今(=明治43年当時)の如く、恋愛物専門となり果てたのである。》 (『文芸倶楽部』)
その前後の頃について『流行歌明治大正史』(添田唖蝉坊・知道著 / 昭和八年刊)は、次のように書いている。
《(明治)二十八年に、青年倶楽部の他に、鉄血倶楽部といふ小さな読売団体ができた。(中略)此の鉄血倶楽部が後三十年六月に青年倶楽部に合した。……
さて青年倶楽部は、絶えず蒙った圧迫の為めに、部員も段々四散して衰運に足を向けてゐた。追はれた者の中には朝鮮から満州、南洋まで飛んだ者もあった。最後まで倶楽部に居残った田村音二郎外一名が退去させられて、倶楽部のおばさん(=壮士等の世話
をした)等と共に川崎へ移って行ったが、その時は巡査二名に送り出されて行った。
そして遂に倶楽部は滅亡した。(明治)三十四年の事である。倶楽部滅亡後は、私(=添田唖蝉坊)の「東海矯風団」が、わづかに演歌の命脈であった》
(『流行歌明治大正史』)
なお「東海矯風団」は、「青年倶楽部」解散後の明治三十五年(一九〇二)に、添田唖蝉坊等(一八七二~一九四四)がおこした演歌団体。政治運動からは手を引き、生活・職業としての演歌活動に専心した。活動を担い、街角に立ったのは主に苦学生(=書生)が多かった。そのため「壮士節」と云う云い方は廃り、新たに「書生節」と呼ばれるようになった。
その「東海矯風団」には、様々な人間が出入りしていた。『唖蝉坊流生記』(添田唖蝉坊著)は云う。
《中に「渋井のばあさん」というのがあった。これは古くからヨミ(=読売)と云われる「一つとせ」の流しをやっていて、「佐野金」と云われたその方の版元からネタを取ってやっていたのだが(私はよくばあさんから西野文太郎の有礼殺しの「一
つとせ」を聴かされた)、演歌をやりたいと云ってきたのだが、ばあさんはやがてどうも演歌のこのかたくるしい文句はいけない。もっとくだけたのを作って下さいよ、と云った。私は苦笑した。そして「ラッパ節」を作った。
一篇を歴史物としたが、ここではじめて演歌に、ひき蛙やお三どんやおてん娘が登場して、後々演歌の滑稽歌といわれるものが生まれたわけだが、これがたいへんな当たり方であった。ちょうど日露講話条約が成ろうという時で、戦捷の余勢もあったが、戦争歌詞よりも、滑稽歌詞の方が一般には受けていた。私はなるほどそういうものかと思った。
今鳴る時計は 八時半 それに遅れりゃ 重営倉
今度の日曜がないじゃなし 放せ軍刀に錆がつく
トコトットット (『ラッパ節』の一部)
非常な売れ行きであった。私はどうも気がさしたので、これに限って、のむき山人と号し、東海矯風団の名の汚れのようにも思って、武井方共同出版社として発行したが、毎朝門前は市をなすの景況で、一人三百部、五百部と望むものに、かろうじて百部もしくは百五十部を渡すとそれを一時間か二時間で売り尽くしてまた馳けつけて来るという始末で、ために印刷所は夜業を続ける騒ぎであった。
これを、それまでのように武井のおやじに扱わせておいたので、武井はすっかり味をしめてしまったのだ。そして演歌のネタ元になった。
(『唖蝉坊流生記』)
ラッパ節は爆発的に流行、全国にご当地替え歌が出来た。沖縄でのものが、本土復帰した一九七二年(昭和四十七)これも爆発的に流行った『十九の春』である。
現在、演歌も絶滅危惧種である。演説を禁止されても「歌」なら文句ないだろうと、抵抗運動として始まったのが演歌である。だから当初は、護身用の杖?を持った壮士たちが、悲憤慷慨しながら怒鳴るように歌った(壮士節)。そんな演歌も時代と共に角が取れ、恋愛ものなどが増えてくると、書生(苦学生)が、学費や生活費を稼ぐため街頭に立って歌うようになった(書生節)。流行を作りながらも生活が出来ることがわかると、一般人も加わるようになり、演歌全盛期が昭和前期頃まで続く。それが、レコードの普及とギター曲の出現により、街頭演歌はみるみる衰退する。
大道芸の会会員募集
ワシントン条約は言わずもがな芸能界からさえ無視され続けられている絶滅危惧種「日本の大道芸」を一緒に伝承しませんか 稽古日は左記の通りです
●第三七〇回目 十月十二日(水(すい))
●第三七一回目 十一月九日(水(すい))
時間・午後六時ー七時半
場所・烏山区民センター 大広間(二階)
また、歴史や時代背景を学び、或いは技術を向上させたい人(オンリー・ワンやナンバー・ワンを目指す人)のために、一名から学習会や特別講習も行っています。
●日時 ・場所(随時)
随時HP掲示板(ほーむぺーじけいじばん)等で通知
編集雑記
大道芸にとって、ここ数年は逆風の時代である。イベントはなくなる、引退者や三途の川を渡る人が嫌に増えた。反面、なかなか後継者は育たない。座して死ぬのを待つか世間に打って出るか。処が処が街頭でパフォーマンスをやろうとしたら、すぐに飛んでくるのがお巡りである。「通報があった」とか何とか。変わったことをするなと、同調圧力をかけてくる。嗚呼!
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