大道芸通信 第368号
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秋から夏へ 旧暦から新暦へ 変化した物しなかったもの
明治五年(一八七二)十二月三日を明治六年(一八七三)一月一日にして以来、すっかり定着した新暦だが、季節と行事のずれが生ずることとなった。 それはともかく、切り替え時の特典として役人の給料は、五年の十二月分給料は二日で一ヶ月分支払われたようである。借金取りに追われる長屋の熊さん八つあんは、大晦日がなくなったと、おなじみの落語があったようである。そんな混乱を経ながらも、現在はすっかり定着したが、季節のずれはどうしようもない。
まずは幼稚園生が作る七夕飾り。現在は夏のものだが、元々秋の行事であった。
旧暦での季節のはじまりは一月から三月が春。だから年賀状で今も「初春の‥‥」と書いたりするのはその名残である。実際には現在(新暦)の一月は未だ冬である。
二月の節分も元来春を告げる行事として、大晦日の行事であった。
さて弥生三月。ひな祭りはかろうじて春にかかる。
四月からは夏であったが、今は春の真っ盛りである。気候温暖化の影響で、桜は四月を待たずに咲くようになったが、初夏の陽気になったお陰で季節は初夏である。
続いて五月、端午の節句はこどもの日だが、菖蒲鉄砲で遊ぶほど今は採れない。精々菖蒲湯に使うぐらいである。
水無月六月は梅雨のイメージが強いが、東京近辺に田圃はない。これも新暦になってのイメージで、古来晩夏として晴天が続いた。だから朔日は富士山の氷が溶ける日として、氷や氷の代用品としての氷餅(かき餅)を食べたのである。同時に富士山山開きが行われた。
現在は月暮れの七月朔日が山開きである。富士講の人たちは勿論、一般の登山客も、この日に富士山へ登る。
富士山と言えば富士塚もまた富士講の人たちによって山開き行事が行われているものがある。私が知っているものでも品川神社(北の天王)や下谷富士(小野照崎神社)、十条富士等色々ある。ちなみに今年は素戔嗚神社(牛頭天王社)の富士塚へ行った。普段は閉鎖している富士塚を山開き当日は開放するかと重いきや、一般には開放せず、神主か何かが紙吹雪を蒔いた痕跡が残っているだけであった(行事を行う午前中は行けんかったので)。
それでも蘇民将来之子孫を名乗る旗が、富士山の周りを囲んでいるのは壮観ではあった。
当初は帰りに十条か小野照の富士山へ寄ろうかと思っていたが、途中で萎えてしまった。
何れにしろ、月遅れにすることにより、夏の行事のまま命脈を保っている。
しかし元から七月七日に行われていた七夕や同じく十五日に行われていた盂蘭盆は変わらぬままである(但し全国的には月遅れの八月に行うところが多い)。
何れにしろ旧暦だと七月からは秋である。現在は七月も八月も夏だから、共に夏の行事として定着している。
夏と言えば欠かせないのが、夜空を彩る花火である。 当事は五月二十八日を初日として八月二十八日まで、スポンサーさえつけば毎日でも打ち上げていた。
そんな隅田川川開きに伴う花火の始まりは、享保十八年(一七三三)五月二十八日から始まる。 享保の大飢饉や疫病流行に伴う死者供養と疫病退散を願ってのことである。以来時に中断しながらも昭和三十六年(一九六一)まで続いた。しかしその後は交通渋滞等に伴い、終えることとなった。
しかし昭和五十三年(一九七八)から、それまでより少し上流へ移り、名前も「隅田川花火大会」に換えて今日まで続けられることとなった(但し今年もコロナ流行のため中断)。元々病魔や疫病退散を願って始められた花火故、今こそ打ち上げねば意味がない、というのは独り言。
夏から秋へかけての物売り
夏から秋にかけては、様々な振り売り(振り声を上げながら売り歩く行商人)が出ていた。夏の飲み物として代表的なのが、「冷水売り」と「麦湯売り」であろう。冷水は井戸水へ砂糖などの甘味をと
かし入れ、紅白の白玉団子を入れたもの。真鍮製の器に一杯四文。売り声は「ひやっこいひやっこい」。実際には冷蔵庫のない時代、冷たいのは真鍮製の器だけ。「ぬるま湯を 辻辻で売る 暑いこと」 などといわれていた。
麦湯売り
麦湯は今で言う麦茶のこと。これは釜を備えた簡易屋台が多かった。狭い長屋を出て風に当たりながら過ごすのが至福の時間であった。
客寄せに若い娘を置くことが多かった。
お迎え火
御迎え火は(七月)十三日の日暮に武家町家の別なく諸大名及び禄高多き旗本方を除くの外毎戸必ず焚きて霊魂を迎ふといふ。武家は門を押し開き玄関より間毎に麻上下(かみしも)を着して相詰め其の厳然たる事恰も生ける人の来臨し給に同じ。町家は前もって家内を清め武家と同じく魂棚を構へ、番頭手代小僧ある家にては、皆店に居並び 家族打ち揃ひ戸外に芋がらを積み火を移すや鉦打ち鳴らし称名を唱へ火焚き移るや霊魂を棚の許へ案内なす式、実に真実に行ふ。是又帷子薄羽織を着したり。。此のお迎え火隣家向前とも同時に炊く。路上に布施僧は鉦又は木魚、扨はニュウパツを鳴らし念仏を唱へて往来なす。又古事記老若の施餓物を貰ひに来ること頻りなり。此の宵陰気の内の賑わひ恰も別世界‥‥。
(『絵本風俗往来』)には書いてないが、近年まで「おがらうり」が来ていた。
売り声は「おむかえ おむかえ」だが、此の声を聞くと子供は怖がったようである。親が子度しかる際「悪いことばかりすると 御先祖様に連れて行ってもらうから」と脅された結果である。 絵解き地獄極楽もそうだが、子供時代に育まれたことは、大人になっても心の片隅に残っているものである。 とりわけ地獄極楽は、現在でも十分子供達を引きつけるし興味も持つ。
常に絶滅の危機に瀕している日本の大道芸が、これからも生き残るための僅かな光が、「玉すだれ」と共に候補の一つだろう。 外には、スタスタ坊主と一筆龍、神霊術、女霊媒師、生きている生首、がまの油売りぐらいか。 現在やる人はいないが、青竹斬りや刀の刃渡り等の危険術、石(いし)立(だて)の術も面白いが、運ぶのに石が重すぎるのが難点である。あと室内だったら「六(ろく)魔(ま)」も受ける。しかし長く生き続けるためには、干支ではなく星座の六魔を完成させるしかない。
以前ほどではないにしろ、干支は十二年ごとだから年がわかる。その点星座なら生まれ月だけで済む。
大道芸の会会員募集
ワシントン条約は言わずもがな芸能界からさえ無視され続けられている絶滅危惧種「日本の大道芸」を一緒に伝承しませんか 稽古日は左記の通りです
●第三六八回目 八月二十三日(火)
●第三六九回目 九月 日( ))
時間・午後六時ー七時半
場所・烏山区民センター 大広間(二階)
また、歴史や時代背景を学び、或いは技術を向上させたい人(オンリー・ワンやナンバー・ワンを目指す人)のために、一名から学習会や特別講習も行っています。
●日時 場所(随時)
随時HP掲示板(ほーむぺーじけいじばん)等で通知
編集雑記
この数ヶ月、毎週我々の稽古会場を抑える団体がある。毎月抽選であるにもかかわらず、いつも落選するのは我々の方である。 是まで三十年近く継続してきたにもかかわらずこんなことは初めてである。先方が一時的なら何れ解決するが、毎月毎週継続なら、からくりが知りたいものである。
外の曜日だと子供達がこれなくなるから深刻だ。
秋から夏へ 旧暦から新暦へ 変化した物しなかったもの
明治五年(一八七二)十二月三日を明治六年(一八七三)一月一日にして以来、すっかり定着した新暦だが、季節と行事のずれが生ずることとなった。 それはともかく、切り替え時の特典として役人の給料は、五年の十二月分給料は二日で一ヶ月分支払われたようである。借金取りに追われる長屋の熊さん八つあんは、大晦日がなくなったと、おなじみの落語があったようである。そんな混乱を経ながらも、現在はすっかり定着したが、季節のずれはどうしようもない。
まずは幼稚園生が作る七夕飾り。現在は夏のものだが、元々秋の行事であった。
旧暦での季節のはじまりは一月から三月が春。だから年賀状で今も「初春の‥‥」と書いたりするのはその名残である。実際には現在(新暦)の一月は未だ冬である。
二月の節分も元来春を告げる行事として、大晦日の行事であった。
さて弥生三月。ひな祭りはかろうじて春にかかる。
四月からは夏であったが、今は春の真っ盛りである。気候温暖化の影響で、桜は四月を待たずに咲くようになったが、初夏の陽気になったお陰で季節は初夏である。
続いて五月、端午の節句はこどもの日だが、菖蒲鉄砲で遊ぶほど今は採れない。精々菖蒲湯に使うぐらいである。
水無月六月は梅雨のイメージが強いが、東京近辺に田圃はない。これも新暦になってのイメージで、古来晩夏として晴天が続いた。だから朔日は富士山の氷が溶ける日として、氷や氷の代用品としての氷餅(かき餅)を食べたのである。同時に富士山山開きが行われた。
現在は月暮れの七月朔日が山開きである。富士講の人たちは勿論、一般の登山客も、この日に富士山へ登る。
富士山と言えば富士塚もまた富士講の人たちによって山開き行事が行われているものがある。私が知っているものでも品川神社(北の天王)や下谷富士(小野照崎神社)、十条富士等色々ある。ちなみに今年は素戔嗚神社(牛頭天王社)の富士塚へ行った。普段は閉鎖している富士塚を山開き当日は開放するかと重いきや、一般には開放せず、神主か何かが紙吹雪を蒔いた痕跡が残っているだけであった(行事を行う午前中は行けんかったので)。
それでも蘇民将来之子孫を名乗る旗が、富士山の周りを囲んでいるのは壮観ではあった。
当初は帰りに十条か小野照の富士山へ寄ろうかと思っていたが、途中で萎えてしまった。
何れにしろ、月遅れにすることにより、夏の行事のまま命脈を保っている。
しかし元から七月七日に行われていた七夕や同じく十五日に行われていた盂蘭盆は変わらぬままである(但し全国的には月遅れの八月に行うところが多い)。
何れにしろ旧暦だと七月からは秋である。現在は七月も八月も夏だから、共に夏の行事として定着している。
夏と言えば欠かせないのが、夜空を彩る花火である。 当事は五月二十八日を初日として八月二十八日まで、スポンサーさえつけば毎日でも打ち上げていた。
そんな隅田川川開きに伴う花火の始まりは、享保十八年(一七三三)五月二十八日から始まる。 享保の大飢饉や疫病流行に伴う死者供養と疫病退散を願ってのことである。以来時に中断しながらも昭和三十六年(一九六一)まで続いた。しかしその後は交通渋滞等に伴い、終えることとなった。
しかし昭和五十三年(一九七八)から、それまでより少し上流へ移り、名前も「隅田川花火大会」に換えて今日まで続けられることとなった(但し今年もコロナ流行のため中断)。元々病魔や疫病退散を願って始められた花火故、今こそ打ち上げねば意味がない、というのは独り言。
夏から秋へかけての物売り
夏から秋にかけては、様々な振り売り(振り声を上げながら売り歩く行商人)が出ていた。夏の飲み物として代表的なのが、「冷水売り」と「麦湯売り」であろう。冷水は井戸水へ砂糖などの甘味をと
かし入れ、紅白の白玉団子を入れたもの。真鍮製の器に一杯四文。売り声は「ひやっこいひやっこい」。実際には冷蔵庫のない時代、冷たいのは真鍮製の器だけ。「ぬるま湯を 辻辻で売る 暑いこと」 などといわれていた。
麦湯売り
麦湯は今で言う麦茶のこと。これは釜を備えた簡易屋台が多かった。狭い長屋を出て風に当たりながら過ごすのが至福の時間であった。
客寄せに若い娘を置くことが多かった。
お迎え火
御迎え火は(七月)十三日の日暮に武家町家の別なく諸大名及び禄高多き旗本方を除くの外毎戸必ず焚きて霊魂を迎ふといふ。武家は門を押し開き玄関より間毎に麻上下(かみしも)を着して相詰め其の厳然たる事恰も生ける人の来臨し給に同じ。町家は前もって家内を清め武家と同じく魂棚を構へ、番頭手代小僧ある家にては、皆店に居並び 家族打ち揃ひ戸外に芋がらを積み火を移すや鉦打ち鳴らし称名を唱へ火焚き移るや霊魂を棚の許へ案内なす式、実に真実に行ふ。是又帷子薄羽織を着したり。。此のお迎え火隣家向前とも同時に炊く。路上に布施僧は鉦又は木魚、扨はニュウパツを鳴らし念仏を唱へて往来なす。又古事記老若の施餓物を貰ひに来ること頻りなり。此の宵陰気の内の賑わひ恰も別世界‥‥。
(『絵本風俗往来』)には書いてないが、近年まで「おがらうり」が来ていた。
売り声は「おむかえ おむかえ」だが、此の声を聞くと子供は怖がったようである。親が子度しかる際「悪いことばかりすると 御先祖様に連れて行ってもらうから」と脅された結果である。 絵解き地獄極楽もそうだが、子供時代に育まれたことは、大人になっても心の片隅に残っているものである。 とりわけ地獄極楽は、現在でも十分子供達を引きつけるし興味も持つ。
常に絶滅の危機に瀕している日本の大道芸が、これからも生き残るための僅かな光が、「玉すだれ」と共に候補の一つだろう。 外には、スタスタ坊主と一筆龍、神霊術、女霊媒師、生きている生首、がまの油売りぐらいか。 現在やる人はいないが、青竹斬りや刀の刃渡り等の危険術、石(いし)立(だて)の術も面白いが、運ぶのに石が重すぎるのが難点である。あと室内だったら「六(ろく)魔(ま)」も受ける。しかし長く生き続けるためには、干支ではなく星座の六魔を完成させるしかない。
以前ほどではないにしろ、干支は十二年ごとだから年がわかる。その点星座なら生まれ月だけで済む。
大道芸の会会員募集
ワシントン条約は言わずもがな芸能界からさえ無視され続けられている絶滅危惧種「日本の大道芸」を一緒に伝承しませんか 稽古日は左記の通りです
●第三六八回目 八月二十三日(火)
●第三六九回目 九月 日( ))
時間・午後六時ー七時半
場所・烏山区民センター 大広間(二階)
また、歴史や時代背景を学び、或いは技術を向上させたい人(オンリー・ワンやナンバー・ワンを目指す人)のために、一名から学習会や特別講習も行っています。
●日時 場所(随時)
随時HP掲示板(ほーむぺーじけいじばん)等で通知
編集雑記
この数ヶ月、毎週我々の稽古会場を抑える団体がある。毎月抽選であるにもかかわらず、いつも落選するのは我々の方である。 是まで三十年近く継続してきたにもかかわらずこんなことは初めてである。先方が一時的なら何れ解決するが、毎月毎週継続なら、からくりが知りたいものである。
外の曜日だと子供達がこれなくなるから深刻だ。
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