大道芸通信 第367号
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飴 細 工
祭りや縁日で人気の飴細工だが,これの始まりは曲吹きといわれる。安永年間(1772~81)に「大坂下り」の見世物として吹屋町の芝居小屋で演じられ人気となった。従って大坂ではこれ以前から行われていた(いつまで遡れるかは今後の課題)。はじめに大きなざるを掲げ、熱した飴を吹き出しながら,ざるからあふれんばかりにまで膨らませて看板とした。その後は葦の先へ飴を付け、反対側から息を吹き出しながら膨らませ,鳥の形を作ったりした。ちょうど昨今のガラス細工の要領である。『近世商賈尽狂歌合』(きんせいしょうかづくしきょうかあわせ)は,左記のように書く。
《或老人の話に,安永年中吹屋町河岸芝居小屋にて、大坂下り飴の曲ふき見世物いでて評判なりしと其以前にもありしや。文化年間中、西両国広小路にて見せたり。当事は是迄あり来たりし飴細工の仕出しにて、図の如く多きなるざるを高くし、是に大なるふくべ(瓢箪)の如く吹て看板にいだし、其外大小の瓢箪を吹く。其曲甚だ妙なり。飴曲吹熊吉などと名を出せしもの、尤も上手なりき》
(『近世商賈尽狂歌合』)
また明治になってからだが『風俗画報』もこれの概略を引用している。
《ある老人の話すところによると,安永年間に吹屋町の見世物小屋へ、大坂から来た飴の曲吹きの見世物が出て大評判となった。それ以前は、そういったものはなかったからである》
(『風俗画報』)
傾向も飴細工は長く続く。十返舎一九の『方言修行金草鞋』(むだしゅぎょうかねのわらじ=『金草鞋』と略されることも多い)や『守貞謾稿』も挿絵入りで紹介している。
その後も飴細工は長く続き現在に至っている。しかし昭和三十年代(~1964)頃を境に、息を吹き込む方法は消え、新粉細工の方法を取りいれた。
銀つば どら焼 金つば
銀つばは米の粉を練り、餡で包んで焼いた餅。その形から銀鍔という。
麩の焼は、元々彼岸の仏事に際し、小麦粉を水で溶き焼鍋の上に薄く伸ばして焼いたもの。片面に味噌を塗っていた。どら焼は金つば焼ともいい、麩の焼と銀鍔とを折衷したようなもの。以前は形が大きかったから銅鑼焼きといったが、形を小さくしたものを金つばと呼んでいる。米か小麦かの違いで焼き色の違いが出、呼び名を分けているようなものである。
『嬉遊笑覧』は京都の地誌『雍州府志』の焼餅項を引用し説明する。
《焼餅は米の粉に練餡を包み、やき鍋にて焼たる。その形をもて銀鍔とも云と有り。いまのどら焼は、又金鍔やきともいふ。これ麩の焼と銀鍔と取り混ぜて造りたるものなり。どらとは形金鼓(コング)に似たる故鉦と名づけしは形大きなるをいひしが、今は形小くなりて金鍔と呼なり(同じものなれども四方を焼たるを、餡を常のよりはよくして、みめよりと名づけしは、浅草の馬道に始めて出でたり。享和(1801
~04)の頃にや、予が先人なども知りたる者の思ひ付なりし。そは程なく無なりしかども、其名失せず。所々にこれを作る。その頃、「元はなくなりし後なり」澤村田之助みめよりといふ歌を所作事にしたり)》 (『嬉遊笑覧』)
「どら焼は人気漫画の主人公・ドラエモンの好物ということで、子供達に見直された点もあるのだが、江戸の早くからある庶民的な菓子の一つ。
火床の上に厚く平らな銅板を置き、その上で小麦粉・砂糖・鶏卵んどで作った種生地を垂らして円形に焼き、中に餡をはさんで二枚重ねたもの。此の火床を俗にドラ鍋とよぶほどだが、正確には平鍋といい、桜餅にも使われるが、関西では一文字鍋といわれている。そういえばどら焼きも関西では三笠山の名で通っているとか。皮の膨らみが三笠山のなだらかな稜線に似ているからだと言われるが、その点から見るとどら焼きの元祖は江戸であるらしい。
得手に帆・尻っかけのどら焼きに呼ばれ もも手(1805)
屋台のどら焼きの姿だろう。尻をからげて威勢よく焼いているどら焼き売りに声をかけられて、辛党は三十六系逃げるにしかずと得意の手で尻に帆をかけて逃げ出す図のようだ。どら焼きも麩の焼につながるクレープ系の菓子で一般には屋台で売られていた」(以下『嬉遊笑覧』を意訳している。先に紹介した原文と重なるが、あま紹介する)
「京では米粉で練餡を包みやき鍋で焼いたものの形から銀つばというものがある。江戸で今売られているどら焼は金つば焼ともいうが、是は麩の焼と銀つばを折衷して作ったもの。以前は形が大きかったから銅鑼焼きといったが、形を小さくしたものを金つばと呼んでいる」
(以上『お菓子俳句ろん』)
これに対し、お菓子俳句ろん著者は、
「金鍔とどら焼きは当事でも違った形の菓子であったはずだが、市井で同じように売られていることもあり『嬉遊笑覧』の著者にもよくわからなかったのかもしれない」として、
「現在でも柏もちと桜もちの区別がつかない人が、年配の方でも意外に多くなっていることに驚く」
とあるが、小生は寡聞にして知らない。
うるち米は白く焼き上がるので銀つばだが、小麦粉の場合は黄色いので金つばという。ここまでは理解できる。現在のものなら、金鍔とどら焼きを間違えることはない。しかし、当事は共に丸かった上、どら焼の別名を金つばとある。大きさの違いでしかなかった。この点に関しては『お菓子俳句ろん』著者も意義を述べていない。しかし最後の方になって『嬉遊笑覧』の間違いとしているのは、紺屋の白袴のような気がする。
ところてん 金玉糖
「たまご たまあご」
一(ひと)声(こえ)も三(み)声(こえ)もいわぬ玉子売り。玉子売りの売り声は二(ふた)声(こえ)に決まっていたが、ところてん売りは、一声半に決まっていた。
「ところてーん てんや
てんや ところてーん」 なぜそうなったかわからないが、経験上一番耳障りのいい売り声であり、売り上げに貢献する売り声として定着したのだろう。
物売りに限らず大道芸はそんなものである。お客と共に完成させるから、日々進化する。理屈ではなく経験値がものをいう。
これからの季節は、ところてんがおいしくなるが、漢字だと「心太」と書く。これを「ところてん」と読むかについては、見当もつかない。
元は遣唐使が持ち帰ったという説があるが、はっきりしない。ただ原料である天草は「凝海藻(こるもは)」、完成品は「心(こころ)太(ぶと)」と呼んでいたようである。どうしてそうなるか諸説あるようだが、「心太を作る際に煮出した天草が冷めて煮凝る(固まる)様子に由来」という説が、これまでの処一番納得できる。「心」は「凝る」の語源。「太」は「太い海藻」であると。
室町時代になると、湯(ゆ)桶(とう)読み(上を訓読み下を音読みする熟語のこと)するようになり、「心太」を「こころたい、こころてい、こころてん」と変化した。た。これが、江戸初期には「ところてん」になったという(未確認情報だが、諸説ある中では一番納得できた)。
記録として一番旧いのは、勝訴員の木管に「心太」の記載があるそうである。また平安時代の『令義解』の解説書にも、心太が納められているとのこと。
「金玉糖」は初めて聞く名前だが、漢字が印象的だから俄然興味がわいた。「寒天液に餡と砂糖を加えれば羊羹となるが、餡を殆ど加えずに寒天の透明さを利用したものが金玉糖である。‥‥最近では誤読を恐れて錦玉糖と書くのが一般的になった」 (『お菓子俳句ろん』) やはり漠然としかわからん。
大道芸の会会員募集
ワシントン条約は言わずもがな芸能界からさえ無視され続けられている絶滅危惧種「日本の大道芸」を一緒に伝承しませんか 稽古日は左記の通りです
●第三六七回目 七月十三日(水(すい))
●第三六八回目 八月二十六日(水(すい))
時間・午後六時ー七時半
場所・烏山区民センター 大広間(二階)
また、歴史や時代背景を学び、或いは技術を向上させたい人(オンリー・ワンやナンバー・ワンを目指す人)のために、一名から学習会や特別講習も行っています。
●日時 ・場所(随時)
随時HP掲示板(ほーむぺーじけいじばん)等で通知
編集雑記
一番身近な食べ物だが、由来や語源については案外知らんもんだと改めて思うた。今回も『お菓子俳句ろん』のお世話になったが、振り売りが行われていたものも、大道芸同様言ったもの勝ち早い者勝ち的状況にあると思う。一つ一つ事実確認を行うことは『大道芸事典』を書いたときより、量が多いだけ時間がかかるだろう。有志を求む。
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飴 細 工
祭りや縁日で人気の飴細工だが,これの始まりは曲吹きといわれる。安永年間(1772~81)に「大坂下り」の見世物として吹屋町の芝居小屋で演じられ人気となった。従って大坂ではこれ以前から行われていた(いつまで遡れるかは今後の課題)。はじめに大きなざるを掲げ、熱した飴を吹き出しながら,ざるからあふれんばかりにまで膨らませて看板とした。その後は葦の先へ飴を付け、反対側から息を吹き出しながら膨らませ,鳥の形を作ったりした。ちょうど昨今のガラス細工の要領である。『近世商賈尽狂歌合』(きんせいしょうかづくしきょうかあわせ)は,左記のように書く。
《或老人の話に,安永年中吹屋町河岸芝居小屋にて、大坂下り飴の曲ふき見世物いでて評判なりしと其以前にもありしや。文化年間中、西両国広小路にて見せたり。当事は是迄あり来たりし飴細工の仕出しにて、図の如く多きなるざるを高くし、是に大なるふくべ(瓢箪)の如く吹て看板にいだし、其外大小の瓢箪を吹く。其曲甚だ妙なり。飴曲吹熊吉などと名を出せしもの、尤も上手なりき》
(『近世商賈尽狂歌合』)
また明治になってからだが『風俗画報』もこれの概略を引用している。
《ある老人の話すところによると,安永年間に吹屋町の見世物小屋へ、大坂から来た飴の曲吹きの見世物が出て大評判となった。それ以前は、そういったものはなかったからである》
(『風俗画報』)
傾向も飴細工は長く続く。十返舎一九の『方言修行金草鞋』(むだしゅぎょうかねのわらじ=『金草鞋』と略されることも多い)や『守貞謾稿』も挿絵入りで紹介している。
その後も飴細工は長く続き現在に至っている。しかし昭和三十年代(~1964)頃を境に、息を吹き込む方法は消え、新粉細工の方法を取りいれた。
銀つば どら焼 金つば
銀つばは米の粉を練り、餡で包んで焼いた餅。その形から銀鍔という。
麩の焼は、元々彼岸の仏事に際し、小麦粉を水で溶き焼鍋の上に薄く伸ばして焼いたもの。片面に味噌を塗っていた。どら焼は金つば焼ともいい、麩の焼と銀鍔とを折衷したようなもの。以前は形が大きかったから銅鑼焼きといったが、形を小さくしたものを金つばと呼んでいる。米か小麦かの違いで焼き色の違いが出、呼び名を分けているようなものである。
『嬉遊笑覧』は京都の地誌『雍州府志』の焼餅項を引用し説明する。
《焼餅は米の粉に練餡を包み、やき鍋にて焼たる。その形をもて銀鍔とも云と有り。いまのどら焼は、又金鍔やきともいふ。これ麩の焼と銀鍔と取り混ぜて造りたるものなり。どらとは形金鼓(コング)に似たる故鉦と名づけしは形大きなるをいひしが、今は形小くなりて金鍔と呼なり(同じものなれども四方を焼たるを、餡を常のよりはよくして、みめよりと名づけしは、浅草の馬道に始めて出でたり。享和(1801
~04)の頃にや、予が先人なども知りたる者の思ひ付なりし。そは程なく無なりしかども、其名失せず。所々にこれを作る。その頃、「元はなくなりし後なり」澤村田之助みめよりといふ歌を所作事にしたり)》 (『嬉遊笑覧』)
「どら焼は人気漫画の主人公・ドラエモンの好物ということで、子供達に見直された点もあるのだが、江戸の早くからある庶民的な菓子の一つ。
火床の上に厚く平らな銅板を置き、その上で小麦粉・砂糖・鶏卵んどで作った種生地を垂らして円形に焼き、中に餡をはさんで二枚重ねたもの。此の火床を俗にドラ鍋とよぶほどだが、正確には平鍋といい、桜餅にも使われるが、関西では一文字鍋といわれている。そういえばどら焼きも関西では三笠山の名で通っているとか。皮の膨らみが三笠山のなだらかな稜線に似ているからだと言われるが、その点から見るとどら焼きの元祖は江戸であるらしい。
得手に帆・尻っかけのどら焼きに呼ばれ もも手(1805)
屋台のどら焼きの姿だろう。尻をからげて威勢よく焼いているどら焼き売りに声をかけられて、辛党は三十六系逃げるにしかずと得意の手で尻に帆をかけて逃げ出す図のようだ。どら焼きも麩の焼につながるクレープ系の菓子で一般には屋台で売られていた」(以下『嬉遊笑覧』を意訳している。先に紹介した原文と重なるが、あま紹介する)
「京では米粉で練餡を包みやき鍋で焼いたものの形から銀つばというものがある。江戸で今売られているどら焼は金つば焼ともいうが、是は麩の焼と銀つばを折衷して作ったもの。以前は形が大きかったから銅鑼焼きといったが、形を小さくしたものを金つばと呼んでいる」
(以上『お菓子俳句ろん』)
これに対し、お菓子俳句ろん著者は、
「金鍔とどら焼きは当事でも違った形の菓子であったはずだが、市井で同じように売られていることもあり『嬉遊笑覧』の著者にもよくわからなかったのかもしれない」として、
「現在でも柏もちと桜もちの区別がつかない人が、年配の方でも意外に多くなっていることに驚く」
とあるが、小生は寡聞にして知らない。
うるち米は白く焼き上がるので銀つばだが、小麦粉の場合は黄色いので金つばという。ここまでは理解できる。現在のものなら、金鍔とどら焼きを間違えることはない。しかし、当事は共に丸かった上、どら焼の別名を金つばとある。大きさの違いでしかなかった。この点に関しては『お菓子俳句ろん』著者も意義を述べていない。しかし最後の方になって『嬉遊笑覧』の間違いとしているのは、紺屋の白袴のような気がする。
ところてん 金玉糖
「たまご たまあご」
一(ひと)声(こえ)も三(み)声(こえ)もいわぬ玉子売り。玉子売りの売り声は二(ふた)声(こえ)に決まっていたが、ところてん売りは、一声半に決まっていた。
「ところてーん てんや
てんや ところてーん」 なぜそうなったかわからないが、経験上一番耳障りのいい売り声であり、売り上げに貢献する売り声として定着したのだろう。
物売りに限らず大道芸はそんなものである。お客と共に完成させるから、日々進化する。理屈ではなく経験値がものをいう。
これからの季節は、ところてんがおいしくなるが、漢字だと「心太」と書く。これを「ところてん」と読むかについては、見当もつかない。
元は遣唐使が持ち帰ったという説があるが、はっきりしない。ただ原料である天草は「凝海藻(こるもは)」、完成品は「心(こころ)太(ぶと)」と呼んでいたようである。どうしてそうなるか諸説あるようだが、「心太を作る際に煮出した天草が冷めて煮凝る(固まる)様子に由来」という説が、これまでの処一番納得できる。「心」は「凝る」の語源。「太」は「太い海藻」であると。
室町時代になると、湯(ゆ)桶(とう)読み(上を訓読み下を音読みする熟語のこと)するようになり、「心太」を「こころたい、こころてい、こころてん」と変化した。た。これが、江戸初期には「ところてん」になったという(未確認情報だが、諸説ある中では一番納得できた)。
記録として一番旧いのは、勝訴員の木管に「心太」の記載があるそうである。また平安時代の『令義解』の解説書にも、心太が納められているとのこと。
「金玉糖」は初めて聞く名前だが、漢字が印象的だから俄然興味がわいた。「寒天液に餡と砂糖を加えれば羊羹となるが、餡を殆ど加えずに寒天の透明さを利用したものが金玉糖である。‥‥最近では誤読を恐れて錦玉糖と書くのが一般的になった」 (『お菓子俳句ろん』) やはり漠然としかわからん。
大道芸の会会員募集
ワシントン条約は言わずもがな芸能界からさえ無視され続けられている絶滅危惧種「日本の大道芸」を一緒に伝承しませんか 稽古日は左記の通りです
●第三六七回目 七月十三日(水(すい))
●第三六八回目 八月二十六日(水(すい))
時間・午後六時ー七時半
場所・烏山区民センター 大広間(二階)
また、歴史や時代背景を学び、或いは技術を向上させたい人(オンリー・ワンやナンバー・ワンを目指す人)のために、一名から学習会や特別講習も行っています。
●日時 ・場所(随時)
随時HP掲示板(ほーむぺーじけいじばん)等で通知
編集雑記
一番身近な食べ物だが、由来や語源については案外知らんもんだと改めて思うた。今回も『お菓子俳句ろん』のお世話になったが、振り売りが行われていたものも、大道芸同様言ったもの勝ち早い者勝ち的状況にあると思う。一つ一つ事実確認を行うことは『大道芸事典』を書いたときより、量が多いだけ時間がかかるだろう。有志を求む。
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