大道芸通信 第366号
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米 饅 頭
米饅頭の始まりは、浅草聖天金竜山(待乳山)の麓にあった鶴屋だと言われるが、山東京伝は『骨董集』(文化十一~十二=1814~15)に、各説と共に、菱川師宣画の写しを載せ、延宝(1673~81)頃までは辻売りであったとしている。
同時に鶴屋の娘およね説を真っ向から否定している。「米をよねといふ。米まんぢうと云も米のまんぢうと云義にて女の名によりてよびたるにはあらざるべし。常のまんぢうは小麦の粉にてつくれば也」(『骨董集』)
続いて様々な資料を紹介しながら説明している。
『紫の一本(ひともと)』(天和二=1682)
に聖天町にてよねまんぢうを商ふ根本は鶴屋といふ菓子屋也。
根本はふもとの鶴やうみぬ らん よねまんぢうはたま ごなりけり 遺 佚
(鶴が産ん卵みたいなものだ)
かかればはやく天和の頃は居店にて売たるならん。
と意見を述べ、自著『骨董集』に、「延宝頃までは辻売りなり」と言い切っている。
同時に「延宝六年板の菱川(師宣)の絵本に此辻売の図あり」と左記の図を載せる。
時系列でいうと、延宝の次が天和である。延宝六年(1678)から天和二年(1682)は
四年しか離れてない。そんな短期でいきなり全面変更出来るだろうか。
続いては『江戸鹿子』(貞享四年=1687印本)「米饅頭屋浅草金竜山ふもとや(麓屋)同所鶴屋」とあり。
「麓や」と接続的に読むか「麓屋」と店名的に読むかで意味が違う。前者だと続く「同所鶴屋」ではなく、「麓の鶴屋」とした方がわかりやすい。私は店名的に「麓屋」と読み同じ処に「鶴屋」もあると読み、「麓屋は辻売り」「鶴屋は店売り」と解釈し両者共存と考えていた。
『江戸咄』(先般は故郷 江戸咄と題す後増補し元禄七年の本あり)巻之五に真土山云々爰の山の麓のよねまんぢうは江戸中にかかれる起名物なり云々 ひととせはやり小うたに金竜山で同道しよ もどりがひもじばよねまんぢうとうたふたり云々」
当時よねまんぢうのおこなはれたるを見るべし
享保(1716~36)の頃の板 江戸八景の絵本に金竜山二王門ありて ひめぢ席一切によねまんぢうの店あり 近き世までもなとりあるべし
(以下、右図の周りに書かれてある文字を真中上の江戸鹿子から 時計回りに読んでいく)
江戸鹿子
真土山の条に(くだり )坂の登口又聖天町の門前も左右ともに茶屋なり
此麓屋伊勢屋の饅頭は名物
なりとて よねまんぢうとよぶ云々」
とあれば伊勢屋とさるも ありしならん
(続いて右側の文字)
これは昔よねまんぢうを入たる紙袋なり
右に引く貞享板江戸鹿子に
見ゆるふもとやなるべし
(左側の文字)
これ古き屏風の下張より出たくる 書風おのづからふるし
やくなきすさびなれど 筆のついでに うつし出しつ
外に『(割書=扇屋かなめ 久米屋六兵衛)米饅頭始 政演画』も国会図書館が公開している。政演は北尾政演(きたおまさのぶ)=山東京伝の浮世絵師当時の名前。
鶴見に残る
米 饅 頭
先日、生麦事件碑確認の後、事件現場にもそれを知らせる案内があると聞き、そちらへも行ったが、現在工事中のためか、場所を記す看板も撤去、地元の人しかわからん状況になっていた。やむを得ず引き返し、生麦駅へ向かう道路の左側に「米饅頭」の看板があった。
米饅頭といえばかつて浅草名物であったが、鶴見名物でもあった。『江戸名所図会』は、川崎の奈良茶飯・万年屋と共に、鶴見橋の挿絵を載せ絵の説明書きに書く。
「鶴見橋 橋より此方に米饅頭を売る店多く此地の名産とす 鶴屋などいへるもの尤も旧く慶長の頃より相続するといへり」(『江戸名所図会』) 慶長の(1596~1615)頃に米饅頭は未だない。延宝六年(1
678)に板行された菱川師宣の挿絵本(1頁)が今のところ最古の記録である。慶長とは七十年ほど開きがある。
私が目をとめた米饅頭は旧生麦村の米饅頭である。少々気になって、米饅頭を買うついでに聞いてみた。
果たして 鶴見の流れを汲むということであった。なおも詳しく聞こうとしたが、手元に資料がないので後日送ってもらうことになった。
それから数日後『甘味歳時記 続 お菓子俳句ろん』という冊子が送られてきた。著者は俳人で御菓子司 清月 先代当主・田村ひろじ氏である。つまり現当主・田村祐子氏の父親である。
前半は菓子の歳時記、続いて地域文化としての菓子の呼び方や四季分類等。最後に鶴見名物米饅頭についての考察である。何れにも関連する俳句が添えてあるのは流石である。
ただ未だにわからんのが、饅頭といいながら、米饅頭は餅である。通常饅頭は小麦粉を材料に使うが米粉を使うから米饅頭と言うのは、理解できる。しかし作り方は、餅同様杵で搗いて作る。当初からそのようである。「餅なのに 饅頭とはこれ如何に」という心境である。
『江戸名所図会』では、米饅頭も万年屋の茶飯も挿絵だけで本文がない。この地域で本文がないのは、「生麦村 しがらき茶店」である。少し覗いてみる。
「生麦村は河崎と神奈川の間(あいの)宿(しゆく)にて立場なり此地し
がらき(信楽)といへる水茶屋は享保年間郭を開きしより梅干しを鬻(ひさ)ぎ梅漬の生姜を商ふ云々」(『江戸名所図会』)
今から半世紀以前までは、梅干しを竹の皮で挟んでしゃぶることが子供たちの間で流行っていたそうである。いわれてみれば、おむすびなども今のように色々な具があるわけではなく殆ど梅干しであった。とりわけこれから夏に向かう季節は、腐敗しにくい梅干しが使われた。
さて米饅頭であるが、鉄道開通と共に、みるみる廃れ明治末期には全部店を閉じた。これが息を吹き返したのは、能登にあった曹洞宗大本山総持寺が移転してきたことである。小さいながら門前町が出来、米饅頭も復活しが、まもなく姿を消した。昔のままでは受け入れられず、改めて工夫を凝らし、今のものに落ち着いた。
大道芸の会会員募集
ワシントン条約は言わずもがな芸能界からさえ無視され続けられている絶滅危惧種「日本の大道芸」を一緒に伝承しませんか 稽古日は左記の通りです
●第三六五回目 五月二十五日(水(すい))
●第三六六回目 六月八日(水(すい))
時間・午後六時ー七時半
場所・烏山区民センター 大広間(二階)
また、歴史や時代背景を学び、或いは技術を向上させたい人(オンリー・ワンやナンバー・ワンを目指す人)のために、一名から学習会や特別講習も行っています。
●日時 ・場所(随時)
随時HP掲示板(ほーむぺーじけいじばん)等で通知
編集雑記 今月十日 TOKYO MX(9CH)の『ぶらり東京江戸散歩』「江戸の広告」編取材で 大道芸の簡単な略史と売り声、実演として玉すだれを行った。
何れも広告と結びつけねばならないから商品によって工夫された売り声や扮装、を使い分けるには若干苦労した。放送は六月四日(土)の十一時半からということである。披露した物をどう編集されるか楽しみである。
米 饅 頭
米饅頭の始まりは、浅草聖天金竜山(待乳山)の麓にあった鶴屋だと言われるが、山東京伝は『骨董集』(文化十一~十二=1814~15)に、各説と共に、菱川師宣画の写しを載せ、延宝(1673~81)頃までは辻売りであったとしている。
同時に鶴屋の娘およね説を真っ向から否定している。「米をよねといふ。米まんぢうと云も米のまんぢうと云義にて女の名によりてよびたるにはあらざるべし。常のまんぢうは小麦の粉にてつくれば也」(『骨董集』)
続いて様々な資料を紹介しながら説明している。
『紫の一本(ひともと)』(天和二=1682)
に聖天町にてよねまんぢうを商ふ根本は鶴屋といふ菓子屋也。
根本はふもとの鶴やうみぬ らん よねまんぢうはたま ごなりけり 遺 佚
(鶴が産ん卵みたいなものだ)
かかればはやく天和の頃は居店にて売たるならん。
と意見を述べ、自著『骨董集』に、「延宝頃までは辻売りなり」と言い切っている。
同時に「延宝六年板の菱川(師宣)の絵本に此辻売の図あり」と左記の図を載せる。
時系列でいうと、延宝の次が天和である。延宝六年(1678)から天和二年(1682)は
四年しか離れてない。そんな短期でいきなり全面変更出来るだろうか。
続いては『江戸鹿子』(貞享四年=1687印本)「米饅頭屋浅草金竜山ふもとや(麓屋)同所鶴屋」とあり。
「麓や」と接続的に読むか「麓屋」と店名的に読むかで意味が違う。前者だと続く「同所鶴屋」ではなく、「麓の鶴屋」とした方がわかりやすい。私は店名的に「麓屋」と読み同じ処に「鶴屋」もあると読み、「麓屋は辻売り」「鶴屋は店売り」と解釈し両者共存と考えていた。
『江戸咄』(先般は故郷 江戸咄と題す後増補し元禄七年の本あり)巻之五に真土山云々爰の山の麓のよねまんぢうは江戸中にかかれる起名物なり云々 ひととせはやり小うたに金竜山で同道しよ もどりがひもじばよねまんぢうとうたふたり云々」
当時よねまんぢうのおこなはれたるを見るべし
享保(1716~36)の頃の板 江戸八景の絵本に金竜山二王門ありて ひめぢ席一切によねまんぢうの店あり 近き世までもなとりあるべし
(以下、右図の周りに書かれてある文字を真中上の江戸鹿子から 時計回りに読んでいく)
江戸鹿子
真土山の条に(くだり )坂の登口又聖天町の門前も左右ともに茶屋なり
此麓屋伊勢屋の饅頭は名物
なりとて よねまんぢうとよぶ云々」
とあれば伊勢屋とさるも ありしならん
(続いて右側の文字)
これは昔よねまんぢうを入たる紙袋なり
右に引く貞享板江戸鹿子に
見ゆるふもとやなるべし
(左側の文字)
これ古き屏風の下張より出たくる 書風おのづからふるし
やくなきすさびなれど 筆のついでに うつし出しつ
外に『(割書=扇屋かなめ 久米屋六兵衛)米饅頭始 政演画』も国会図書館が公開している。政演は北尾政演(きたおまさのぶ)=山東京伝の浮世絵師当時の名前。
鶴見に残る
米 饅 頭
先日、生麦事件碑確認の後、事件現場にもそれを知らせる案内があると聞き、そちらへも行ったが、現在工事中のためか、場所を記す看板も撤去、地元の人しかわからん状況になっていた。やむを得ず引き返し、生麦駅へ向かう道路の左側に「米饅頭」の看板があった。
米饅頭といえばかつて浅草名物であったが、鶴見名物でもあった。『江戸名所図会』は、川崎の奈良茶飯・万年屋と共に、鶴見橋の挿絵を載せ絵の説明書きに書く。
「鶴見橋 橋より此方に米饅頭を売る店多く此地の名産とす 鶴屋などいへるもの尤も旧く慶長の頃より相続するといへり」(『江戸名所図会』) 慶長の(1596~1615)頃に米饅頭は未だない。延宝六年(1
678)に板行された菱川師宣の挿絵本(1頁)が今のところ最古の記録である。慶長とは七十年ほど開きがある。
私が目をとめた米饅頭は旧生麦村の米饅頭である。少々気になって、米饅頭を買うついでに聞いてみた。
果たして 鶴見の流れを汲むということであった。なおも詳しく聞こうとしたが、手元に資料がないので後日送ってもらうことになった。
それから数日後『甘味歳時記 続 お菓子俳句ろん』という冊子が送られてきた。著者は俳人で御菓子司 清月 先代当主・田村ひろじ氏である。つまり現当主・田村祐子氏の父親である。
前半は菓子の歳時記、続いて地域文化としての菓子の呼び方や四季分類等。最後に鶴見名物米饅頭についての考察である。何れにも関連する俳句が添えてあるのは流石である。
ただ未だにわからんのが、饅頭といいながら、米饅頭は餅である。通常饅頭は小麦粉を材料に使うが米粉を使うから米饅頭と言うのは、理解できる。しかし作り方は、餅同様杵で搗いて作る。当初からそのようである。「餅なのに 饅頭とはこれ如何に」という心境である。
『江戸名所図会』では、米饅頭も万年屋の茶飯も挿絵だけで本文がない。この地域で本文がないのは、「生麦村 しがらき茶店」である。少し覗いてみる。
「生麦村は河崎と神奈川の間(あいの)宿(しゆく)にて立場なり此地し
がらき(信楽)といへる水茶屋は享保年間郭を開きしより梅干しを鬻(ひさ)ぎ梅漬の生姜を商ふ云々」(『江戸名所図会』)
今から半世紀以前までは、梅干しを竹の皮で挟んでしゃぶることが子供たちの間で流行っていたそうである。いわれてみれば、おむすびなども今のように色々な具があるわけではなく殆ど梅干しであった。とりわけこれから夏に向かう季節は、腐敗しにくい梅干しが使われた。
さて米饅頭であるが、鉄道開通と共に、みるみる廃れ明治末期には全部店を閉じた。これが息を吹き返したのは、能登にあった曹洞宗大本山総持寺が移転してきたことである。小さいながら門前町が出来、米饅頭も復活しが、まもなく姿を消した。昔のままでは受け入れられず、改めて工夫を凝らし、今のものに落ち着いた。
大道芸の会会員募集
ワシントン条約は言わずもがな芸能界からさえ無視され続けられている絶滅危惧種「日本の大道芸」を一緒に伝承しませんか 稽古日は左記の通りです
●第三六五回目 五月二十五日(水(すい))
●第三六六回目 六月八日(水(すい))
時間・午後六時ー七時半
場所・烏山区民センター 大広間(二階)
また、歴史や時代背景を学び、或いは技術を向上させたい人(オンリー・ワンやナンバー・ワンを目指す人)のために、一名から学習会や特別講習も行っています。
●日時 ・場所(随時)
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編集雑記 今月十日 TOKYO MX(9CH)の『ぶらり東京江戸散歩』「江戸の広告」編取材で 大道芸の簡単な略史と売り声、実演として玉すだれを行った。
何れも広告と結びつけねばならないから商品によって工夫された売り声や扮装、を使い分けるには若干苦労した。放送は六月四日(土)の十一時半からということである。披露した物をどう編集されるか楽しみである。
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