大道芸通信 第364号
木魚講の今
藩政時代には百近い講があり盛んであった木魚講も、今は僅かに二つの講があるだけである。何れも東京都の無形民俗文化財になっている「下谷竜泉木魚講」と「江戸木魚節保存会」である。何れもふるくからある。
右のうち龍泉木魚講講元谷古氏へ連絡して見たところ『木魚講御詠歌』及び『木魚講の由来について』(大谷義博著)、参拝時の集合写真の三点を送ってもらった。
私が気になったんは、冊子『木魚講の由来について』である。パラパラとめくってみたら、木魚講の略史が書かれてあった。以前から「寛文九年(1669)」の年号が彫られた灯籠については気になっていた。『藤岡屋日記』(1804~68)によると、木魚講は寛政年間(1789~1801)に、浅草寺の御花講として始まったと書かれてある。その間の隔たりは百年以上ある。加えて同灯籠の正面及び裏面には、全く異なる筆で、正面に木魚講、裏面に文化八年(1811)の文字が彫り込んである。
未来の年号を知る事はできないから、寛文九年の碑文は、廃棄された灯籠。それを再利用したのが文化八年位に考えていた。
ところが『木魚講の由来』中に紹介されてあった冊子『それそれ草』(宝永元年(1704)自序 正徳五年(1715)刊)中に、木魚講について書かれてある部分が引用されていた。貴重なので紹介する。
「近き頃 貧賎無碌のやから無情講として組々をさだめ少ツ(すこし )ツの懸銭(かけせん)を集め其中に死の先だつものあれば そのつみ(積)銭を以て講中より合い(寄合)のべ(野辺)送り不足なき程にとり調子(ママ)
近頃此事大に流行り木魚講と称し 大な(おおき )る木魚に紐付けて首にかけてこれを打(うち)ツツ念仏をとなふれば其外これにつれて大声に念仏してのべ送りするなり」
(『それそれ草』)
(ママ=調子の後に何らかの言葉が続くと思うが)
寛文九年よりは新しいが、寛政よりは旧い。『藤岡屋日記』がいうより早い発祥を、二書が述べるのであれば、ほぼ間違いないだろう。宝永元年(1704)までは遡らせていい。残り寛文九年との差は三十四五年に縮まったが、実際にこれを埋めようとすれば難しい。
何故というに『それぞれ草』には、木魚講が始まったのは「近き頃無情講として」葬式代を積み立てていたのが、「近頃は木魚講と称するようになって」大きな木魚に紐を付けて首に掛け、これを打ちながら念仏を唱えるようになったとある。
つまり『それぞれ草』を著した数年?以前迄は「無情講」といっていた講を、同書を書いた宝永元年前後からは木魚を中心にした「木魚講」と称すようになった、といっている。ならば、先行するものとして「無情講」のようなものはあったにせよ、「木魚講」自体を称するようになったのは、宝永元年前後と見做すほかない。
問題は「近き頃」と「近頃」の差がどの位あるかである。寛文九年までの三十四五年の間にあることは推察できるが、それ程長期間にわたるとは思えない。ほんの数年の間に起こった変化だろう。遡っても元禄(1688~1704)止まりだと思う。
その後については『藤岡屋日記』や『宝暦現耒集』(文政十二年序天保二年(1831)成立)に記されてある通りであろう(本紙既存号及び拙著『日本大道芸事典』)が、しぶとく生き残る。
上の写真は、西新井大師境内に立つ石碑群である。向かって右から、「東京木魚講」(東京とあるから明治以降建立)。続いて、文政八年に建立された「木魚講」(この碑の左右に全く別の書体で「寛文九年」の年号が入っている)。左側奥に建つ大きな碑は昭和三年(1928)に建立したもの。裏面にこの碑を立てた講元の氏名がびっしり書き込まれてある。 これに共に都の無形民俗文化財、下谷龍泉木魚講講元谷古善和氏、江戸木魚節保存会講元松崎弘太氏の先祖である谷古善氏松崎吉五郎氏両名の名前が刻まれてあるのは言うまでもない。現在は木魚講と木魚節の二つしかないが、当時までは盛んだった様子が、碑面に顕れている。
木魚講御詠歌
竜泉木魚講講元谷古善和氏より、現在使用中の送られてきた『木魚講御詠歌』を紙面の限り覆製紹介する(サアは講員の唱え オサは長)
高野山 弘法大師
√ありがたや
サア たかののやまの(高野の山
オサ いわかげに の岩陰に
だいしはいまに 大師は今に
サア おわします おわします
川崎大師
√ありがたや
サア なもやくよけの(南無厄
サア へいげんじ 除の平間寺
だいしのちかい 大師の誓い
サア あらたなりけり
金竜山観世音
√ふかきとが(深き罪)
サア いまよりのちわ
オサ よもあらじ
サア つみあさくさへ
サア まいるみなれば
しゃか如来
√わらのやま
サア ふたたびかげの
オサ うつりきて
サア さがののつゆに
サア ありあけのつき
西新井大師
√おもいたつ
サア こころひとつを
オサ ともとして
サア だいしのみやこ
おがみそめぬる
(思い立つ 心一つを
友として 大師の都
拝み染めぬる)
六あみだ懸まいり
√もときより
サア ぬまたをこへて
オサ にしにいき
サア たばたしたやへ
まいるかめいど
(本木より 沼田を越へて
西に行き 田端下谷へ 詣る亀戸)
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●第三六四回目
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●日時 ・場所(随時)
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編集雑記 『
江戸名所図会』によると、中野にある宝仙寺には象の骨があると書く。享保十三年(1728)に交(こう)趾(ち)国(ベトナム)から献上された雌雄二頭のうちの一頭(雄)である(雌は長崎到着と同時に死去)。中野に象小屋を建てて飼っていたが、二十余年後の寛延(1748~52)頃死んだそうである。そこで頭骨と牙を宝仙寺へ納め、長いこと名物であった。しかし世界大戦の戦禍で消失した。
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