大道芸通信 第361号

大道芸通信 第361ー①号.jpghttps://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/005/008/43/N000/000/000/164511073787510151181-thumbnail2.jpg?1645110738020『東都歳事記』に見る江戸の歳末
左の挿絵は『東都歳事記』が載す「歳暮交加図(としのくれゆきかいのず)」である。慌ただしくお正月の準備をしている様が現れていて面白い。右頁の上半分から左にかけては門松を作っている所である。馬の背に乗せている松と割木は、門松の材料である。馬の前で穴を掘っている二人は、門松を固定させるためである。直ぐ左に黒い箱の中に入っている松と竹が門松である。 次葉(頁)の注連飾りは、門松につける注連飾りの制作過程である。完成すれば下図【『徳川盛世録』が載す大名屋敷の門松】のようになるのである。

今こんな門松を立てている家はないが、大名屋敷や豪商の、標準的な門松がこれであった。門松の根元を固めているのは白砂の廻りを割木で固め新縄を巻いたものである。その上の門松は、下半分が松、上半分は竹である。それぞれ竹芯に固定してある。両側の竹芯に渡すのが、注連飾りである。詳しく知りたければ、『えど友』(江戸博友の会報)二〇一八年一ー二月号へ詳しく書いたので見て下さい。
《二十八日 ○貴賤の家にて門松を立て注連飾りをなすに、大かた今明日を用ゆ(寺社も同じ)》『東都歳事記』

●節季候(せきぞろ)
注連飾りの下に、オカメの面や幟打を挿した編み笠を被っている一団は「節季候」である。

元日を おこす やうなり 節季候 基角

或いは芭蕉も「節季候の 来れば風雅も師走かな」と詠んだりしているが、割竹をガチャガチャ鳴らしたり、三味線を弾いたり騒がしくすることが目的だから銭をやって、さっさと他所へ行って貰っていたのが実際である。それでも年末の風物として市民は受け入れていたのだから、鷹揚である。

● 扇箱売り
 当時江戸では 年始の挨拶廻りをする際は扇箱を持参する風習があった。一方貰った側では、箱のまま玄関へ井桁に積み上げ、来客の多さを競った。来客の少ない家では、自分で買って見栄のために積み上げた。 それを見越して売り歩くのが、「扇箱売り」である。
 そのかわり松の内が終わると不用になった扇箱を買い戻し、来年まで保管していた。これが「扇箱買い」である。

●獅子舞一行
少し気が早いとは思うが、獅子舞一行である。今の獅子舞は一人舞だから、変化に乏しく誰がやっても同じだが、 当時は勿論昭和三十年(1955)代までは、二人舞が当たり前であった。それだけ変化に富んで面白かった。
 それが何故一人舞舞になったかというと、前後の入れ替わりがなかったからである。外国の獅子舞が今も二人舞であるのは、適宜前後が入れ替わっているからである。
 獅子舞に限らず何の芸でも一緒だが、日本の芸能の悪い所は、前後が決して入れ替わらないことだ。これじゃ後は面白くない。独立を目指す。結果、一人舞ばかりとなった。

●引きずり餅
街頭餅搗きのことである。『東都歳事記』へ次のように載す。
(十二月)廿六日
○此の節より餅搗き街に賑はし。其の体尊卑により差別あれども、おほよそ市井の餅つきは餅搗く者四五人宛て組み合はせて、竃蒸篭臼杵薪何くれのもの担ひあり(歩)き、傭うて餅つかする人、糯米を出して渡せば、やがて其の家の前にむら立ち、町中せましとと搗きたつることいさましく、昼夜のわかちなし。俗これを賃餅または引きづりなどといふなり。都で下旬、歳暮に餅を送り歳暮を賀す。是を餅配りといふ。塩魚乾し魚を添へるなり。

○餅の手を
  はたいていづる 衣配    木導
○文はこ(筥)の 模様先見る 衣配    曽良
○有明も 三十日に近し 餅の音   はせを

正月の鏡餅や雑煮用の餅を搗く生業。現在も正月には、鏡餅を飾ったり雑煮を食べるが、大抵の人はスーパーに並ぶ餅で済ませる。処が、昭和三十年代(1955~64)頃迄は自宅で搗くか賃餅屋に津いて貰っていた。江戸時代の風習が続いていた。ただ江戸時代と違うのは、引きづり餅ではなく米屋などが期間限定で行っていた副業(賃餅搗き)に頼っていたことである。 これがなくなったのは、高度成長が始まりスーパーなどが台頭したためである。米屋に限らず個人商店が建ち行かなくなり、ばたばた潰れたことと重なる。何時の間にか現在見るようなスーパーやコンビニと入れ替わり小売商店が期えてしまった。 鏡餅も上下二段であったが、現在ではビニールで固められ達磨か瓢箪型になったのが殆どである。
それでも正月には、鏡餅を飾り雑煮を食べる風習は今尚続いている。しかしその意味を知っている人は少ない。鏡餅は全体として神霊の宿る三種神器を指すとされる。則ち餅は鏡を、餅の上に置く橙と串柿は、それぞれ玉と剣を表す。
但し近年では、東京を中心に、串柿を飾らないことが増えた。というより、串柿その物を知らない人が多い。ついでにいうなら、年の始めに最初に口にするのは「福茶」だが、お茶の中へ梅干しまたは切り昆布(結び昆布)或いは両方を入れたお茶のことだが、関西以西では、今も広く行われている風習である(福茶に関しては、通販などが取り扱うようになった)。 ↓伝統鏡餅
反面、新しく生まれたものもある。それが初詣である。現在では初詣に行くことが当たり前になっているが、明治の中半頃から始まった新しい習慣である。
 そのころ漸く発達しはじめた鉄道会社が、自社の鉄道沿線にある寺社への誘客運動の一環として行ったのが最初である。現在も某鉄道会社が高雄山や薬何とかいう寺への梃入れの様を見ていれば、推察できるだろう。 それ以前のお正月の過ごし方は、一部の人は、恵方参りや氏神様への初詣に出かけたが、殆どのは今で云う寝正月であった。
 一方では初子(はつね)(大黒天)や初不動(不動明王)等への初縁日詣を行っていたから、これが初詣のようなものであった。
なお、恵方参りは歳(とし)徳(とく)神(がみ)(その歳の福徳を司る神で、干支により毎歳変わる)のいる寺社 へ参詣すること。氏神への初詣は、元来「歳籠(としごもり)」であった。家長が大晦日の夜から元日の朝にかけて氏神の所へ籠る(歳を越えて籠る)ことであった。今年一年無事に過ごせた事への感謝と、新年の無事と平安を祈るためである。この行事が、大晦日の「除夜詣」と元日朝の「元日詣」に分かれた姿が今の除夜の鐘と初詣である。
元日をゆっくり過ごしたからであろうか、二日になると早朝から全てのものが動きだした。初荷や町火消しの出初は勿論、太(だい)神(かぐ)楽(ら)、鳥(とり)追(おい)、万歳、小(こ)鰭(はだ)の鮨売り、宝船や暦売り、文武の稽古始めなども一斉に始まった。中でも江戸に独特なのが、「鳥追」と「小鰭の鮨売り」である。 鳥追とは元来、農村での
害鳥駆除と豊作を願う小正月行事のこと。江戸ではこれが変化し、女太夫(ストリートミュージシャン)が、松の内の間だけ、菅笠を編笠に替えて演奏した。これを鳥追と呼んだ。小鰭の鮨は、正月二日だけ売りに来た。「坊主騙して還俗させて 小鰭の鮨でも売らせたい」といわれた。

 大道芸の会会員募集 
 ワシントン条約は言わずもがな芸能界からさえ無視され続けられている絶滅危惧種「日本の大道芸」を一緒に伝承しませんか 稽古日は左記の通りです
●第三六一回目 一月十九日(水(すい))
●第三六二回目 二月九日(水(すい))
時間・午後六時ー七時半
場所・烏山区民センター 大広間(二階)

 また、歴史や時代背景を学び、或いは技術を向上させたい人(オンリー・ワンやナンバー・ワンを目指す人)のために、一名から学習会や特別練習も行っています。
●日時 ・場所(随時)
 随時HP掲示板(ほーむぺーじけいじばん)等で通知

編集雑記
コロナが治まったと思ったら新株が流行りだしたようである。飲食店は再開したようだが、感染を恐れる高齢者は、今尚自粛生活をして居るようである。その影響があるのかないのか、当会も高齢者は皆欠席している。それに伴い、稽古時間も短縮した。部屋を借りれば使わなくても費用が発生する。本気でやらん人に合わせる気はない。短縮のままが続きそうである。

この記事へのトラックバック