大道芸通信 第359号
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木場の木遣念仏
木場の木遣念仏はいつ頃成立したものか不明だが、富岡八幡宮別当永代寺の住職が、氏子の人々に広めたといわれる。戦前までは、木場の川並、船頭、材木屋の間に永代講と呼ばれる講仲間があり、仲間の家に不幸があったときに大数珠を操って念仏を唱える百万遍念仏を行なっていた。永代講は戦前になくなったが、現在も木場木遣保存会が、お念仏と称してこれを伝承している。
木遣念仏は、音頭一人、木魚を叩き算木を操る人(お坊さんと呼ばれる)一人、大数珠を回す人十数人で行なわれる。この念仏の特徴は、道具として木魚が用いられていること、木遣の節が入っていることなどである。(江東区文化財係)
木(き)遣(やり)念仏を検索すると、江東区のH・P・に到達し、右のように出ていた。
しかしこれだけだとよくわからないので、問い合わせ先となっていた「地域振興部 文化観光課 文化財係」へ問い合わせてみたがよくわからない。それでも、歌詞を教えてもらったのは収穫であった。
後で紹介するが、その前に木遣念仏について、私が知り得たことを少々説明する。
木遣念仏が広まったのは、木魚講に取り入れられてからである。木魚講は、誰が死んでも遺ったものが、責任を持って葬式を行う講のことである。その変わり、葬式代として定期的に積立を行っていた。日常活動は、大きな木魚を叩きながら、念仏を唱え、講員を募ることである。
『藤岡屋日記』(1804~68)は、木魚講は寛政年間(1789~1801)に始まったとある。その後念仏に木遣を取り入れた処、大流行するようになった。
《抑、( そもそも )木魚講之儀は、寛政之頃、浅草寺観世音の御花講と唱し、木魚講を目論見、念仏にきやり(木遣)同様の節を付候故、流行り出し、二三講も浅草にて出来候所、其後追々人数もふへ(増え)候》 (『藤岡屋日記』嘉永六年(1853)五月七日)》
寛政年間と云えば、質素倹約だけの寛政の改革が行われた頃である。但し、首謀者の松平定信は「浴恩園(よくおんえん)」などという豪壮な別荘を築地に造った(現在でも、旧築地魚市場蹟を発掘調査すれば、豪華絢爛な庭園が埋まっているはずである)。
つい先月末に解除されたが、某国の内閣もコロナ対策と称し、民衆には「外へ出るな酒飲むな我慢せえ」しかいわんかったくせに、上級国民は構わんとばかり自分たちは、好き勝手をしていたのと同じである。
木魚講が爆発的に流行ったのも、 我慢ばかりさせられる当局に対するストレス発散の為も大きいであろう。
首が凝(こ)るんじゃなかろうかと思われる程大きな木魚を思い切り敲(たた)きながら、これまた大声で木遣念仏を皆で唱えながら町々を練り歩いた。お金のない庶民がストレス発散させるためには、皆で大声を出しながら勝手気ままに歩くことが、丁度よかったのである。
最初はパチンコ、次がホストクラブと様子を見ながら、最後に網を仕掛けたのが、お酒を出す店である。しかしそこからコロナが流行した話は今に至るまでない。日々の通勤列車やスーパーなどでも、流行した話はない。反論しにくいところをターゲットにしただけだろう。何ら対応策を採らずに、コロナが治まるまで祈り続ける為の生け贄が欲しかっただけである。だから現在、急激に減ったのも理由がわからんと云うのも頷ける。昔なら祈ったご利益だといえただろうが、流石にそこまでは気恥ずかしくていえんじゃろう。
少々話がずれたが、木魚講に戻ると、こちらも早速当局から、いちゃもんが付けられた。
《木魚講中 文化年中(1804~18)より、俗人木魚の大なる事、四斗樽(約七十二㍑)程の丸さにいとしき物を首に掛け、座布団いかにも立派に仕立て、金襴天鵞絨(びろーど)などに金銀の縫い取りなどを致し、三枚四枚づつ重ね、念仏も六宗わからず、歌唄ふがごとく、何の勧(かん)化(げ)といふ事なく、毎夜毎夜市中を歩ける。次第に増長し、町年寄より留めたる事なれども、その講中内に死たるもの有るときは、彼の木魚を首に掛けて打ちながら葬送前へ立ちて、念仏申しながら行く也。是はいまに折々見掛けける》
(『宝暦現耒集』)
しかし、何の裏付けもなく締め付けるだけでは、箍が緩むのは現在と同じである。木魚講は益々盛んとなり、段々贅沢になり、歌唄ふがごとく(木遣念仏を唱えながら)、毎夜市中を我が物顔で歩くようになった。それが一つ覚えのような幕政、幕命、質素倹約に対する、庶民のささやかな抵抗である。
対する幕府は、益々強硬になった。嘉永五年(1852)五月廿五日、新たな触書を出した。《木魚講中御触之次第
一 開帳仏江戸着並出立之節、向ひ又は送(り)抔と号(なづけ)
或は神仏縁日等え木魚講と唱へ大なる木魚を布団江乗せ襟江懸往来を打ちならし念仏を唱多人数押歩行(あるき)候儀
増長致し候由以之外之事に候右は神仏崇敬之意に違ひ市中風俗にも拘り候儀に付早々相止候様町役人共より可申聞候》
その場はともかく、何れ長続きしなかったようで、その後も度々禁令が出された。
そうはいっても、木魚講に限らず新興宗教などが流行るときは、大抵世の中が閉塞状況にある。嘉永六年(一八五三)三月の『藤岡屋日記』は、「(木魚講が流行り始めた)当時世の有様」と題して、富士講が禁止されたのと入れ違いのように流行り出したこと。その木魚講まで禁止されたことに対し、庶民が抵抗を試みている様を述べている。
《嘉永六丑年三月
当時世の有様
(前略)冨士講が差留られ、木魚講がはびこり、此方は浅草観音の御花講にて、東叡山宮様の御支配にて、念仏だからいゝおかひといふかけ声を高らかに張上げ、大木魚の布団を天鵞絨縮緬にて拵へ、是へ金糸にて縫を致し、二重に敷重ね、信心は脇のけにて、是見よがしと大行にたゝき歩行。又師匠の花見も段々と仰山に相成、娘子供は振袖の揃ひ、世話人は黒羽弐重の小袖に茶宇の袴を着し、大拍子木をたゝき、先へ縮緬染抜の幟を押立て、祭礼年番之附祭り気取りにて、甚敷は種々さまざまの姿にやつし途中道々茶番狂言を致し歩業、往来を妨げ候故に、是も差留られ、又錦絵も役者ハ差留られ候(中略)
節季候(せきぞろ)は 霜をも待たず 早く出て
有顔見せる 春に延けり (『藤岡屋日記』)》
つまり、富士講が禁止されたと思ったら、今度は木魚講が流行りだした。そう思ったのも束の間、今度は木魚講まで幕府から禁止されてしまった。この措置に対する抵抗している様を記しているのが、「当時世の有様」である。
こちら(=木魚講)は元来門跡寺院である東叡山寛永寺末の浅草観音(浅草寺)の御花講である。だから、幕府ではなく門跡・輪王寺宮をいただく寛永寺配下にある。仏教信徒集団である木魚講員が念仏を唱えて何が悪いと、却って大声をあげて念仏を唱えだした。しかも大木魚を載せる布団は、これみよがしとばかり、金糸で縫い取りを行った天鵞絨(ビロウド)や縮(ちり)緬(めん)で誂え(あつら )たものを二重に敷重ねていた。信心よりも抵抗運動じゃなかろうかと、これ見よがしに大袈裟に木魚を叩きながら、声たからかに木遣念仏を唱えながら歩いていた。
最初の方に書いたように、木魚講は元来、浅草寺の花見講である。だから花見講も木魚講同様大仰になり、娘や子供には揃いの振り袖、世話人たちは黒羽弐重の小袖に茶宇の袴を着て大拍子木を叩き、先頭には縮緬染め抜きの幟を立てた。その様は、寺社の祭礼の附祭(つけまつ)り気取り。揚句様々に変装し、道中では豪華な衣装を身につけ芝居狂言などをしながら歩いた。現在のハロウィン宜敷、羽目を外し大騒ぎするようになった。そんなことは通行の邪魔だからと、またしても禁止されることとなった。しかし、本音は贅沢禁止であることは、こちらもブームであった役者錦絵も同時に禁ぜられていることを見ても推察できる。
最後に季節外れの節季候(せきぞろ)の詩を載せているのも、皮肉を込めているのである。芭蕉の句に「節季候の 来れば風雅も 師走かな」というのがあるように、十二月二十日過ぎから現れる物貰いのことである。割竹をガチャガチャ五月蠅く叩きながら顕れることで知られていた。ところが何時からか、霜も 降りないうち(初冬)から現れる一方、実入りがいいからであろう。正月(春)を過ぎてもなお顕れ続けるようになった。お花講として季節物であった木魚講も、年中活動するようになったのと同じである、と皮肉っているのである。
何れにしろ、弾圧は段々大げさになり、一旦は表から消え去るように見えた。しかししぶとく続いていたことは、色々な資料から明らかである。只残念なことにそろそろ紙面が尽きる。
最後に、西新井大師に残る木魚講の石碑や灯籠について簡単に説明しておく。
西新井大師の石碑の内一番新しいものは昭和三年(1928)に建立されたものである。
それ以外にも「東京木魚講」と彫られたものや、寛文九年(1669)と文政八年(1825)両方の年号を入れた灯籠まである。明らかに字体が事なるので、別々に彫られたものだが、理由不詳。
最後に、「江東区文化観光課文化財係」からFAXしてもらった「木遣念仏の歌詞」を紹介します。
木遣念仏 歌詞
〈伝承者〉
木場木遣保存会のメンバーが伝承している。中心になるのは音頭をとる人で一人。札(算木)をくり、木魚を叩く。「坊さん」と呼んでいた。今は木魚は別の人が叩く。鉦を叩く人が一人。音頭は最初大木魚の調子で「こよいはお別れーー」(これはお通夜の時のもので、出棺の時は「おくりましょうーー」を唄う)を唄い、参加者はそれに続ける。一節唄ってのち「ナムキミョウチョウライ ナムアミダブツ」を早い調子で唱える。その後すぐ続けて、今度はゆっくりした調子で
(音頭)「エー
ナムアミダーブツ」
(全員)「ナムーアーミダブツ」 の念仏を三〇分ぐらい唱え、これに合わせて大数珠を廻す(参考・佐賀町のダイシコウでも大数珠を廻す)。
人々は丸くなって、音頭と鉦、木魚は数珠の中心に坐る。 なお音頭は、次の念仏唄を適宜唱える。
√針の山々(全員)エー
ナムアミダブツ 以下同
√難行苦行の
√和歌の浦には
√名所がござる
√一に権現
√二に玉津島
√三に下がり松
√四に塩竃よ
√よせてはかえさぬ
√波の音
√九十九谷は
√高野の山々
√大師はおはすか
√十万億土に
√導き給え
大道芸の会会員募集
ワシントン条約は言わずもがな芸能界からさえ無視され続けられている絶滅危惧種「日本の大道芸」を一緒に伝承しませんか 稽古日は左記の通りです
●第三五九回目 十一月十日(水(すい))
●第三六十回目 十二月八日(水(すい))
時間・午後六時ー七時半
場所・烏山区民センター 大広間(二階)
また、歴史や時代背景を学び、或いは技術を向上させたい人(オンリー・ワンやナンバー・ワンを目指す人)のために、一名から学習会や特別練習も行っています。
●日時 ・場所(随時)
随時HP掲示板(ほーむぺーじけいじばん)等で通知
編集雑記
久々に木魚講を取り上げたのは、朧気ながら、はじめて木魚念仏の形が見えて嬉しかったからである。実際には木遣念仏の中にあるものを、そう思っているに過ぎないのだが、あながち間違いではないと思う。木魚講は念仏に木遣を取り入れたことが、冬至の人々の琴線にかかり、爆発的に流行ったからである。木遣にとっても木魚講あってのものと思うから。
木場の木遣念仏
木場の木遣念仏はいつ頃成立したものか不明だが、富岡八幡宮別当永代寺の住職が、氏子の人々に広めたといわれる。戦前までは、木場の川並、船頭、材木屋の間に永代講と呼ばれる講仲間があり、仲間の家に不幸があったときに大数珠を操って念仏を唱える百万遍念仏を行なっていた。永代講は戦前になくなったが、現在も木場木遣保存会が、お念仏と称してこれを伝承している。
木遣念仏は、音頭一人、木魚を叩き算木を操る人(お坊さんと呼ばれる)一人、大数珠を回す人十数人で行なわれる。この念仏の特徴は、道具として木魚が用いられていること、木遣の節が入っていることなどである。(江東区文化財係)
木(き)遣(やり)念仏を検索すると、江東区のH・P・に到達し、右のように出ていた。
しかしこれだけだとよくわからないので、問い合わせ先となっていた「地域振興部 文化観光課 文化財係」へ問い合わせてみたがよくわからない。それでも、歌詞を教えてもらったのは収穫であった。
後で紹介するが、その前に木遣念仏について、私が知り得たことを少々説明する。
木遣念仏が広まったのは、木魚講に取り入れられてからである。木魚講は、誰が死んでも遺ったものが、責任を持って葬式を行う講のことである。その変わり、葬式代として定期的に積立を行っていた。日常活動は、大きな木魚を叩きながら、念仏を唱え、講員を募ることである。
『藤岡屋日記』(1804~68)は、木魚講は寛政年間(1789~1801)に始まったとある。その後念仏に木遣を取り入れた処、大流行するようになった。
《抑、( そもそも )木魚講之儀は、寛政之頃、浅草寺観世音の御花講と唱し、木魚講を目論見、念仏にきやり(木遣)同様の節を付候故、流行り出し、二三講も浅草にて出来候所、其後追々人数もふへ(増え)候》 (『藤岡屋日記』嘉永六年(1853)五月七日)》
寛政年間と云えば、質素倹約だけの寛政の改革が行われた頃である。但し、首謀者の松平定信は「浴恩園(よくおんえん)」などという豪壮な別荘を築地に造った(現在でも、旧築地魚市場蹟を発掘調査すれば、豪華絢爛な庭園が埋まっているはずである)。
つい先月末に解除されたが、某国の内閣もコロナ対策と称し、民衆には「外へ出るな酒飲むな我慢せえ」しかいわんかったくせに、上級国民は構わんとばかり自分たちは、好き勝手をしていたのと同じである。
木魚講が爆発的に流行ったのも、 我慢ばかりさせられる当局に対するストレス発散の為も大きいであろう。
首が凝(こ)るんじゃなかろうかと思われる程大きな木魚を思い切り敲(たた)きながら、これまた大声で木遣念仏を皆で唱えながら町々を練り歩いた。お金のない庶民がストレス発散させるためには、皆で大声を出しながら勝手気ままに歩くことが、丁度よかったのである。
最初はパチンコ、次がホストクラブと様子を見ながら、最後に網を仕掛けたのが、お酒を出す店である。しかしそこからコロナが流行した話は今に至るまでない。日々の通勤列車やスーパーなどでも、流行した話はない。反論しにくいところをターゲットにしただけだろう。何ら対応策を採らずに、コロナが治まるまで祈り続ける為の生け贄が欲しかっただけである。だから現在、急激に減ったのも理由がわからんと云うのも頷ける。昔なら祈ったご利益だといえただろうが、流石にそこまでは気恥ずかしくていえんじゃろう。
少々話がずれたが、木魚講に戻ると、こちらも早速当局から、いちゃもんが付けられた。
《木魚講中 文化年中(1804~18)より、俗人木魚の大なる事、四斗樽(約七十二㍑)程の丸さにいとしき物を首に掛け、座布団いかにも立派に仕立て、金襴天鵞絨(びろーど)などに金銀の縫い取りなどを致し、三枚四枚づつ重ね、念仏も六宗わからず、歌唄ふがごとく、何の勧(かん)化(げ)といふ事なく、毎夜毎夜市中を歩ける。次第に増長し、町年寄より留めたる事なれども、その講中内に死たるもの有るときは、彼の木魚を首に掛けて打ちながら葬送前へ立ちて、念仏申しながら行く也。是はいまに折々見掛けける》
(『宝暦現耒集』)
しかし、何の裏付けもなく締め付けるだけでは、箍が緩むのは現在と同じである。木魚講は益々盛んとなり、段々贅沢になり、歌唄ふがごとく(木遣念仏を唱えながら)、毎夜市中を我が物顔で歩くようになった。それが一つ覚えのような幕政、幕命、質素倹約に対する、庶民のささやかな抵抗である。
対する幕府は、益々強硬になった。嘉永五年(1852)五月廿五日、新たな触書を出した。《木魚講中御触之次第
一 開帳仏江戸着並出立之節、向ひ又は送(り)抔と号(なづけ)
或は神仏縁日等え木魚講と唱へ大なる木魚を布団江乗せ襟江懸往来を打ちならし念仏を唱多人数押歩行(あるき)候儀
増長致し候由以之外之事に候右は神仏崇敬之意に違ひ市中風俗にも拘り候儀に付早々相止候様町役人共より可申聞候》
その場はともかく、何れ長続きしなかったようで、その後も度々禁令が出された。
そうはいっても、木魚講に限らず新興宗教などが流行るときは、大抵世の中が閉塞状況にある。嘉永六年(一八五三)三月の『藤岡屋日記』は、「(木魚講が流行り始めた)当時世の有様」と題して、富士講が禁止されたのと入れ違いのように流行り出したこと。その木魚講まで禁止されたことに対し、庶民が抵抗を試みている様を述べている。
《嘉永六丑年三月
当時世の有様
(前略)冨士講が差留られ、木魚講がはびこり、此方は浅草観音の御花講にて、東叡山宮様の御支配にて、念仏だからいゝおかひといふかけ声を高らかに張上げ、大木魚の布団を天鵞絨縮緬にて拵へ、是へ金糸にて縫を致し、二重に敷重ね、信心は脇のけにて、是見よがしと大行にたゝき歩行。又師匠の花見も段々と仰山に相成、娘子供は振袖の揃ひ、世話人は黒羽弐重の小袖に茶宇の袴を着し、大拍子木をたゝき、先へ縮緬染抜の幟を押立て、祭礼年番之附祭り気取りにて、甚敷は種々さまざまの姿にやつし途中道々茶番狂言を致し歩業、往来を妨げ候故に、是も差留られ、又錦絵も役者ハ差留られ候(中略)
節季候(せきぞろ)は 霜をも待たず 早く出て
有顔見せる 春に延けり (『藤岡屋日記』)》
つまり、富士講が禁止されたと思ったら、今度は木魚講が流行りだした。そう思ったのも束の間、今度は木魚講まで幕府から禁止されてしまった。この措置に対する抵抗している様を記しているのが、「当時世の有様」である。
こちら(=木魚講)は元来門跡寺院である東叡山寛永寺末の浅草観音(浅草寺)の御花講である。だから、幕府ではなく門跡・輪王寺宮をいただく寛永寺配下にある。仏教信徒集団である木魚講員が念仏を唱えて何が悪いと、却って大声をあげて念仏を唱えだした。しかも大木魚を載せる布団は、これみよがしとばかり、金糸で縫い取りを行った天鵞絨(ビロウド)や縮(ちり)緬(めん)で誂え(あつら )たものを二重に敷重ねていた。信心よりも抵抗運動じゃなかろうかと、これ見よがしに大袈裟に木魚を叩きながら、声たからかに木遣念仏を唱えながら歩いていた。
最初の方に書いたように、木魚講は元来、浅草寺の花見講である。だから花見講も木魚講同様大仰になり、娘や子供には揃いの振り袖、世話人たちは黒羽弐重の小袖に茶宇の袴を着て大拍子木を叩き、先頭には縮緬染め抜きの幟を立てた。その様は、寺社の祭礼の附祭(つけまつ)り気取り。揚句様々に変装し、道中では豪華な衣装を身につけ芝居狂言などをしながら歩いた。現在のハロウィン宜敷、羽目を外し大騒ぎするようになった。そんなことは通行の邪魔だからと、またしても禁止されることとなった。しかし、本音は贅沢禁止であることは、こちらもブームであった役者錦絵も同時に禁ぜられていることを見ても推察できる。
最後に季節外れの節季候(せきぞろ)の詩を載せているのも、皮肉を込めているのである。芭蕉の句に「節季候の 来れば風雅も 師走かな」というのがあるように、十二月二十日過ぎから現れる物貰いのことである。割竹をガチャガチャ五月蠅く叩きながら顕れることで知られていた。ところが何時からか、霜も 降りないうち(初冬)から現れる一方、実入りがいいからであろう。正月(春)を過ぎてもなお顕れ続けるようになった。お花講として季節物であった木魚講も、年中活動するようになったのと同じである、と皮肉っているのである。
何れにしろ、弾圧は段々大げさになり、一旦は表から消え去るように見えた。しかししぶとく続いていたことは、色々な資料から明らかである。只残念なことにそろそろ紙面が尽きる。
最後に、西新井大師に残る木魚講の石碑や灯籠について簡単に説明しておく。
西新井大師の石碑の内一番新しいものは昭和三年(1928)に建立されたものである。
それ以外にも「東京木魚講」と彫られたものや、寛文九年(1669)と文政八年(1825)両方の年号を入れた灯籠まである。明らかに字体が事なるので、別々に彫られたものだが、理由不詳。
最後に、「江東区文化観光課文化財係」からFAXしてもらった「木遣念仏の歌詞」を紹介します。
木遣念仏 歌詞
〈伝承者〉
木場木遣保存会のメンバーが伝承している。中心になるのは音頭をとる人で一人。札(算木)をくり、木魚を叩く。「坊さん」と呼んでいた。今は木魚は別の人が叩く。鉦を叩く人が一人。音頭は最初大木魚の調子で「こよいはお別れーー」(これはお通夜の時のもので、出棺の時は「おくりましょうーー」を唄う)を唄い、参加者はそれに続ける。一節唄ってのち「ナムキミョウチョウライ ナムアミダブツ」を早い調子で唱える。その後すぐ続けて、今度はゆっくりした調子で
(音頭)「エー
ナムアミダーブツ」
(全員)「ナムーアーミダブツ」 の念仏を三〇分ぐらい唱え、これに合わせて大数珠を廻す(参考・佐賀町のダイシコウでも大数珠を廻す)。
人々は丸くなって、音頭と鉦、木魚は数珠の中心に坐る。 なお音頭は、次の念仏唄を適宜唱える。
√針の山々(全員)エー
ナムアミダブツ 以下同
√難行苦行の
√和歌の浦には
√名所がござる
√一に権現
√二に玉津島
√三に下がり松
√四に塩竃よ
√よせてはかえさぬ
√波の音
√九十九谷は
√高野の山々
√大師はおはすか
√十万億土に
√導き給え
大道芸の会会員募集
ワシントン条約は言わずもがな芸能界からさえ無視され続けられている絶滅危惧種「日本の大道芸」を一緒に伝承しませんか 稽古日は左記の通りです
●第三五九回目 十一月十日(水(すい))
●第三六十回目 十二月八日(水(すい))
時間・午後六時ー七時半
場所・烏山区民センター 大広間(二階)
また、歴史や時代背景を学び、或いは技術を向上させたい人(オンリー・ワンやナンバー・ワンを目指す人)のために、一名から学習会や特別練習も行っています。
●日時 ・場所(随時)
随時HP掲示板(ほーむぺーじけいじばん)等で通知
編集雑記
久々に木魚講を取り上げたのは、朧気ながら、はじめて木魚念仏の形が見えて嬉しかったからである。実際には木遣念仏の中にあるものを、そう思っているに過ぎないのだが、あながち間違いではないと思う。木魚講は念仏に木遣を取り入れたことが、冬至の人々の琴線にかかり、爆発的に流行ったからである。木遣にとっても木魚講あってのものと思うから。