大道芸通信 第358号
江戸の生業
江戸の生業の中には、よく知られた「あさり売り」等がある一方、滅多に話題にならない地味なものもあった。中々取り上げられることが少ないので紹介する。
○下掃除
肥桶を天秤にかけ肥柄杓を桶の中へ入れて来たり。厠池(せついん)に
溜りし大小便を汲みとるものを下(しも)掃(そう)除(じ)又は肥(こえ)とろオワイオワイヤと俗呼(ぞくこ)す。是は葛西辺を始め江戸近在より馬を引てきたり、汲取し肥を馬に付て運び帰るあり。また肥船とて一種別様の船漕て便利よき川岸へ着け、此の船中に肥を汲入て漕ぎ帰るあり。去れば川岸堀端桟橋の船つきある処は、何れの処を問ず肥船の繋ぎあらざるはなし。又肥(こえ)桶(たご)を担ぎてオワイオワイと呼つつ町々を歩く。オワイとは肥を汲といふ知らせなり。当時の歌言葉に「浅黄の手拭ほうかむり肥桶担ぎてオワイといひ」しあり。将軍家御城中諸侯の邸には、門の外に掃除口といふ処を出来あ(しゆつたい )りて、此入口より下掃除人出入したり。掃除口は開閉の時刻厳重なり。とて武家寺院社家等の下掃除は銭にて大小便を売るといふこと絶てなし。銭にて肥を売りしは其頃の町方家主大家といふ者の外はなきことなり。去れば「家主は店子の尻で餅を搗き」といふ悪口ありたり。
糞尿を下肥として利用した話はよく出るが、実態については噂ばかりが先行しているようである。最後に出てくる「町方」は役人、「家主」は現在の大家、「大家」は管理人のことである。
○塩や
江戸の頃、価の廉なるものは、塩を以て第一とすべく。去れば俚言に塩を嘗て金を溜るといひ、塩を嘗めても覚があるなどいひしにて、其安価なりしを証すべし。
故に足腰達者にて家業の資銭(もとで)なきものは世渡る道も随分ある中に塩売りなどを尤も便利とす。其荷(にな)ふ処の籠、桶、枡、天秤に至るまで塩店より貸与へ塩のうり上り銭と残りたる塩と正(せい)算(さん)して其日其日の得たる利益を貰ひて糊口するものとす。此商は老年に多し。塩籠と桶を天秤にかけて荷ふあり。かぶせ蓋竪長を二ツ桶を二ツにて商ふあり。「エ塩エしほー」と叫び歩く。
重労働な割に単価が安い。通常なら若者の仕事のようだが、賃金の安さに誰も見向きはしない。必然的に万年人手不足に陥るから、誰でもいい。といことで、仕事にあぶれがちな老人ばかりが集まったのである。
○空樽買
天秤の先へ縄を結びしは樽を買ひし時の準備なり。「たるはご在 樽やでご在 空(あき)樽(だる)はご在」ト醤油の空樽を買あるくなり。江戸の頃は醤油は樽の古きをよしすれば醤油樽にかぎり古樽を買歩きて生計の営みとなりしなり。去れば随分多くありたる商人なりし。
醤油に限らず発酵食品は時間と共に樽から角が取れ熟成するとともに味に深みが出る。そんな樽を求められた。
○木拾ひ
風呂屋が薪とするため、市中を巡って薪を集める生業。一番楽に大量に集まるのは火事場の後である。しかし如何に江戸の華とはいえ、そうそう火事があるものではない。どのようにして集めるかが腕の見せ所である。悪質な者は板塀を剥がしたり長屋の壁を壊したりしたそうだ。そんなのは犯罪だが、結構いたようである。だから長屋の入口に「木拾ひお断り」の看板が掛かっていたりした。
○眼鏡印判墨
当時の眼鏡は老眼鏡が殆どである。それとてとても高かったから、おいそれと庶民が手に入れられなかった。
印判も然り。余程の高齢者でない限り、最近「印判」ということを耳にすることはない。「印」若しくは「ハンコ」である。それでも昭和三十年代までは印判という言葉も生きていた。
万年筆も駆逐されボールペン全盛の現在では、墨を見るのは子供の習字と賞状ぐらいである。賞状は印刷が増えたし名前もパソコンで打つ。しかしかつて「墨」は字を書くときに使う必需品だった。
○らうの源
「らう」は「らお」ともいい、煙管(きせる)の吸(すい)口(くち)と雁(がん)首(くび)を繋ぐ真ん中の竹のことである。元々ラオスの竹で作っていたから「らお」が正しいが、後に訛って「らう」とも云うようになったといわれる。最近では「列車の運賃を誤魔化すことをキセルという」使い方が殆どである。意味は説明しなくてもわかるとは思うが、列車に乗る際最短の切符を買い、降りるときは定期券で降りる。真ん中のらお(又はらう=竹の部分)を誤魔化すことである。
○油売り
黒ぬり桶に銅の内張をしたるは恰も火桶の如く其桶に売物の油を儲へ(たくは )しは先ず第一に種油といふは、毎夜燈火に用る油なり。漁燈といふは燈火油の粗物にして、胡麻の油は食物に遣ひ、荏の油は油障子などに用ゐ、椿の油は婦人の髪に用ゆ。此外に小さき蝋燭を商ふ油屋は紺無地の衣、同じく小倉織の帯に前垂をかけ襷甲斐甲斐しくかけ家業に出るは午後(ひるすぎ)なりける。日々廻る得意場の定まりし土地あり。「ヘエ油 ヘエあぶらア」と呼ぶ声の聞ゆるや。否裏屋住居を預る族は、油(あぶら)注(さし)を取出し一合買ふあり。五勺需るありて、日暮の繁忙夥しきは、市中所々の横町新道の浦屋にて油を買ふこといづれも同じ。また油注を携へ油店へ油を需(もとむ)に行に油注を入て持出す箱ありて小僧か下婢其箱を携て行ものなりとす。
水と違って油は注ぐのに時間がかかる。とりわけ最後の方は何時までも滴が切れず大変である。サボることを「油を売る」というのも、必要以上に時間がかかったからである。油売りにとっては迷惑な話だが、やむを得ない。
○七ツ坊主
三縁山広度院増上寺は芝檀林にして寺地一万五百四十石、実に徳川将軍家御祈願書なり。塔頭三十防あり。。各々御朱印を賜りたり。山中三嶋谷神明谷山下谷三軒谷等の区域を別ちて谷谷に所化寮満満たり。随て所化僧の多き千を以て数へたり。此所化僧等日々の課業終るや日暮七つ時といふ鐘声を報ずるや十人二十人づつ組市中所々へ托鉢に出づ。七ツ時の時鐘に出でけるより七つ坊主と唱へたり。尤も七つ時より点燈迄の時刻を限れば今の二時間ばかりの中とす。山中は元来豊かなれば托鉢とはいへ青年層をして身を安く置しめざるの修行なり。故にもの乞ふ乞食とは雲泥の隔てあり。また此僧等青年の勇意飛んで肉をも喰はん勢ひにして夙に蛍雪錬磨の修学時代なるまこ兎角事あれがしと動もすれば諸侯の供先、且は辻固めの番士、武家の骨あるものと争論を好みける。山中にても托鉢は名のみにして実は大道通行するものを懲しめんことを専らとす。 去れば事あるに臨みては一歩も譲らず進んで敵を挫きて帰山するを誉れとはなしたり。 其扮打回向院仏餉僧に同じくして拍子木を打鳴しつつ足早に通行してける。只念仏を世話して唱へたり。
○鎌倉節の飴売り
高さ三尺ばかりの台の上に人形を据て其人形が鉦打鳴して三(さみ)線(せん)の相方となり、謡曲の調子を助る。仕掛は子供の御意に入相まで、四十(よそ)路の坂を越えても日本橋よ
り数丁四方を朝から出でて廻るなり。始めは此鎌倉節の飴売は三筋の糸の懸値なしの飴を商ひ、其愛嬌に三線を引きて人形に鉦を打鳴させ孫子們(こどもしう)の慰みに叶へたしとの考なりしも此(ここ)所彼処(かしこ)と
売巡れば、何時しか不覚覚し芸。手巾蒙て顔は包むといへども、包めぬ物は声の艶麗。忽ち粋士の耳を欹(そばだ)てしめしが、鎌倉節の鳴出る一撥当し根緒とはなりぬ。三線の皮は四乳(よつち)にあらざれども演ずる場所は市中の辻辻。一度(ひとたび)荷を卸すや二度(ふたたび)上ぐる暇な(いとま )く、続々謡曲(うた)の臨み絶
ず。飴は孫子們の鼻薬、謡曲は大人の耳の楽み。財布の潤ふに引返て音声を枯し、
日の業二三日は休むも三寸の咽喉は潤ひたり。此頃俳優尾上菊五郎、未だ市村羽左衛門といひし頃にて此鎌倉節の評判の高きを聞て舞台にて演じて見たく思立ち質しかば、此飴売を家に招ききょくもm其節々を自得となし、猿若町二丁目市村座に於て演じけるが、是又大きに好評を得しかば、随って鎌倉節も市中にて又格別に愛顧(ひいき)せられて其評よく羽左衛門よりは己が紋所染出したる衣類を寒暑両度年々贈りしかば其衣類を着て家業に出でたりけるは是また当人の誉れなりし。(以上『風俗往来』)
鎌倉節は、歌い出しが「鎌倉の」で始まる民謡や俗謡。
元々鎌倉地域で歌われたようだが、幕末頃から江戸に伝搬し流行った。更には西上し、上方でも流行ったとされる。 但し、その頃になると、歌詞や曲節も変化し様々なヴァージョンが生まれ鎌倉節を名乗る必要も無くなったため何時の間にか消えた。
大道芸の会会員募集
ワシントン条約は言わずもがな芸能界からさえ無視され続けられている絶滅危惧種「日本の大道芸」を一緒に伝承しませんか 稽古日は左記の通りです
●第三五八回目 十月十三日(水(すい))
●第三五九回目 十一月十七日(水(すい))
時間・午後六時ー七時半
場所・烏山区民センター 大広間(二階)
歴史や時代背景等学問的知識を学び、技術を向上させたい人の、学習会や特別稽古も行います(一名から)
●日時 ・場所(随時)
随時HP掲示板(ほーむぺーじけいじばん)等で通知
編集雑記
今月十二日(日)は深川江戸資料館主催「江戸の物売りと大道芸」イベントである。今回も前回同様、コロナ対策のため短縮バージョンである。前にパネルを立て、観客に飛沫が飛ばないようにした上で演じることになった。随って物売りは省略し大道芸だけである。演目は虚無僧尺八、生きている生首、絵解 地獄極楽および玉すだれとわいわい天王である。何れも古来から伝わる貴重な芸の伝承である。
江戸の生業の中には、よく知られた「あさり売り」等がある一方、滅多に話題にならない地味なものもあった。中々取り上げられることが少ないので紹介する。
○下掃除
肥桶を天秤にかけ肥柄杓を桶の中へ入れて来たり。厠池(せついん)に
溜りし大小便を汲みとるものを下(しも)掃(そう)除(じ)又は肥(こえ)とろオワイオワイヤと俗呼(ぞくこ)す。是は葛西辺を始め江戸近在より馬を引てきたり、汲取し肥を馬に付て運び帰るあり。また肥船とて一種別様の船漕て便利よき川岸へ着け、此の船中に肥を汲入て漕ぎ帰るあり。去れば川岸堀端桟橋の船つきある処は、何れの処を問ず肥船の繋ぎあらざるはなし。又肥(こえ)桶(たご)を担ぎてオワイオワイと呼つつ町々を歩く。オワイとは肥を汲といふ知らせなり。当時の歌言葉に「浅黄の手拭ほうかむり肥桶担ぎてオワイといひ」しあり。将軍家御城中諸侯の邸には、門の外に掃除口といふ処を出来あ(しゆつたい )りて、此入口より下掃除人出入したり。掃除口は開閉の時刻厳重なり。とて武家寺院社家等の下掃除は銭にて大小便を売るといふこと絶てなし。銭にて肥を売りしは其頃の町方家主大家といふ者の外はなきことなり。去れば「家主は店子の尻で餅を搗き」といふ悪口ありたり。
糞尿を下肥として利用した話はよく出るが、実態については噂ばかりが先行しているようである。最後に出てくる「町方」は役人、「家主」は現在の大家、「大家」は管理人のことである。
○塩や
江戸の頃、価の廉なるものは、塩を以て第一とすべく。去れば俚言に塩を嘗て金を溜るといひ、塩を嘗めても覚があるなどいひしにて、其安価なりしを証すべし。
故に足腰達者にて家業の資銭(もとで)なきものは世渡る道も随分ある中に塩売りなどを尤も便利とす。其荷(にな)ふ処の籠、桶、枡、天秤に至るまで塩店より貸与へ塩のうり上り銭と残りたる塩と正(せい)算(さん)して其日其日の得たる利益を貰ひて糊口するものとす。此商は老年に多し。塩籠と桶を天秤にかけて荷ふあり。かぶせ蓋竪長を二ツ桶を二ツにて商ふあり。「エ塩エしほー」と叫び歩く。
重労働な割に単価が安い。通常なら若者の仕事のようだが、賃金の安さに誰も見向きはしない。必然的に万年人手不足に陥るから、誰でもいい。といことで、仕事にあぶれがちな老人ばかりが集まったのである。
○空樽買
天秤の先へ縄を結びしは樽を買ひし時の準備なり。「たるはご在 樽やでご在 空(あき)樽(だる)はご在」ト醤油の空樽を買あるくなり。江戸の頃は醤油は樽の古きをよしすれば醤油樽にかぎり古樽を買歩きて生計の営みとなりしなり。去れば随分多くありたる商人なりし。
醤油に限らず発酵食品は時間と共に樽から角が取れ熟成するとともに味に深みが出る。そんな樽を求められた。
○木拾ひ
風呂屋が薪とするため、市中を巡って薪を集める生業。一番楽に大量に集まるのは火事場の後である。しかし如何に江戸の華とはいえ、そうそう火事があるものではない。どのようにして集めるかが腕の見せ所である。悪質な者は板塀を剥がしたり長屋の壁を壊したりしたそうだ。そんなのは犯罪だが、結構いたようである。だから長屋の入口に「木拾ひお断り」の看板が掛かっていたりした。
○眼鏡印判墨
当時の眼鏡は老眼鏡が殆どである。それとてとても高かったから、おいそれと庶民が手に入れられなかった。
印判も然り。余程の高齢者でない限り、最近「印判」ということを耳にすることはない。「印」若しくは「ハンコ」である。それでも昭和三十年代までは印判という言葉も生きていた。
万年筆も駆逐されボールペン全盛の現在では、墨を見るのは子供の習字と賞状ぐらいである。賞状は印刷が増えたし名前もパソコンで打つ。しかしかつて「墨」は字を書くときに使う必需品だった。
○らうの源
「らう」は「らお」ともいい、煙管(きせる)の吸(すい)口(くち)と雁(がん)首(くび)を繋ぐ真ん中の竹のことである。元々ラオスの竹で作っていたから「らお」が正しいが、後に訛って「らう」とも云うようになったといわれる。最近では「列車の運賃を誤魔化すことをキセルという」使い方が殆どである。意味は説明しなくてもわかるとは思うが、列車に乗る際最短の切符を買い、降りるときは定期券で降りる。真ん中のらお(又はらう=竹の部分)を誤魔化すことである。
○油売り
黒ぬり桶に銅の内張をしたるは恰も火桶の如く其桶に売物の油を儲へ(たくは )しは先ず第一に種油といふは、毎夜燈火に用る油なり。漁燈といふは燈火油の粗物にして、胡麻の油は食物に遣ひ、荏の油は油障子などに用ゐ、椿の油は婦人の髪に用ゆ。此外に小さき蝋燭を商ふ油屋は紺無地の衣、同じく小倉織の帯に前垂をかけ襷甲斐甲斐しくかけ家業に出るは午後(ひるすぎ)なりける。日々廻る得意場の定まりし土地あり。「ヘエ油 ヘエあぶらア」と呼ぶ声の聞ゆるや。否裏屋住居を預る族は、油(あぶら)注(さし)を取出し一合買ふあり。五勺需るありて、日暮の繁忙夥しきは、市中所々の横町新道の浦屋にて油を買ふこといづれも同じ。また油注を携へ油店へ油を需(もとむ)に行に油注を入て持出す箱ありて小僧か下婢其箱を携て行ものなりとす。
水と違って油は注ぐのに時間がかかる。とりわけ最後の方は何時までも滴が切れず大変である。サボることを「油を売る」というのも、必要以上に時間がかかったからである。油売りにとっては迷惑な話だが、やむを得ない。
○七ツ坊主
三縁山広度院増上寺は芝檀林にして寺地一万五百四十石、実に徳川将軍家御祈願書なり。塔頭三十防あり。。各々御朱印を賜りたり。山中三嶋谷神明谷山下谷三軒谷等の区域を別ちて谷谷に所化寮満満たり。随て所化僧の多き千を以て数へたり。此所化僧等日々の課業終るや日暮七つ時といふ鐘声を報ずるや十人二十人づつ組市中所々へ托鉢に出づ。七ツ時の時鐘に出でけるより七つ坊主と唱へたり。尤も七つ時より点燈迄の時刻を限れば今の二時間ばかりの中とす。山中は元来豊かなれば托鉢とはいへ青年層をして身を安く置しめざるの修行なり。故にもの乞ふ乞食とは雲泥の隔てあり。また此僧等青年の勇意飛んで肉をも喰はん勢ひにして夙に蛍雪錬磨の修学時代なるまこ兎角事あれがしと動もすれば諸侯の供先、且は辻固めの番士、武家の骨あるものと争論を好みける。山中にても托鉢は名のみにして実は大道通行するものを懲しめんことを専らとす。 去れば事あるに臨みては一歩も譲らず進んで敵を挫きて帰山するを誉れとはなしたり。 其扮打回向院仏餉僧に同じくして拍子木を打鳴しつつ足早に通行してける。只念仏を世話して唱へたり。
○鎌倉節の飴売り
高さ三尺ばかりの台の上に人形を据て其人形が鉦打鳴して三(さみ)線(せん)の相方となり、謡曲の調子を助る。仕掛は子供の御意に入相まで、四十(よそ)路の坂を越えても日本橋よ
り数丁四方を朝から出でて廻るなり。始めは此鎌倉節の飴売は三筋の糸の懸値なしの飴を商ひ、其愛嬌に三線を引きて人形に鉦を打鳴させ孫子們(こどもしう)の慰みに叶へたしとの考なりしも此(ここ)所彼処(かしこ)と
売巡れば、何時しか不覚覚し芸。手巾蒙て顔は包むといへども、包めぬ物は声の艶麗。忽ち粋士の耳を欹(そばだ)てしめしが、鎌倉節の鳴出る一撥当し根緒とはなりぬ。三線の皮は四乳(よつち)にあらざれども演ずる場所は市中の辻辻。一度(ひとたび)荷を卸すや二度(ふたたび)上ぐる暇な(いとま )く、続々謡曲(うた)の臨み絶
ず。飴は孫子們の鼻薬、謡曲は大人の耳の楽み。財布の潤ふに引返て音声を枯し、
日の業二三日は休むも三寸の咽喉は潤ひたり。此頃俳優尾上菊五郎、未だ市村羽左衛門といひし頃にて此鎌倉節の評判の高きを聞て舞台にて演じて見たく思立ち質しかば、此飴売を家に招ききょくもm其節々を自得となし、猿若町二丁目市村座に於て演じけるが、是又大きに好評を得しかば、随って鎌倉節も市中にて又格別に愛顧(ひいき)せられて其評よく羽左衛門よりは己が紋所染出したる衣類を寒暑両度年々贈りしかば其衣類を着て家業に出でたりけるは是また当人の誉れなりし。(以上『風俗往来』)
鎌倉節は、歌い出しが「鎌倉の」で始まる民謡や俗謡。
元々鎌倉地域で歌われたようだが、幕末頃から江戸に伝搬し流行った。更には西上し、上方でも流行ったとされる。 但し、その頃になると、歌詞や曲節も変化し様々なヴァージョンが生まれ鎌倉節を名乗る必要も無くなったため何時の間にか消えた。
大道芸の会会員募集
ワシントン条約は言わずもがな芸能界からさえ無視され続けられている絶滅危惧種「日本の大道芸」を一緒に伝承しませんか 稽古日は左記の通りです
●第三五八回目 十月十三日(水(すい))
●第三五九回目 十一月十七日(水(すい))
時間・午後六時ー七時半
場所・烏山区民センター 大広間(二階)
歴史や時代背景等学問的知識を学び、技術を向上させたい人の、学習会や特別稽古も行います(一名から)
●日時 ・場所(随時)
随時HP掲示板(ほーむぺーじけいじばん)等で通知
編集雑記
今月十二日(日)は深川江戸資料館主催「江戸の物売りと大道芸」イベントである。今回も前回同様、コロナ対策のため短縮バージョンである。前にパネルを立て、観客に飛沫が飛ばないようにした上で演じることになった。随って物売りは省略し大道芸だけである。演目は虚無僧尺八、生きている生首、絵解 地獄極楽および玉すだれとわいわい天王である。何れも古来から伝わる貴重な芸の伝承である。