大道芸通信 第357号

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 薬売りから幕臣へ 最上徳内 出世咄

寛政(1789~1801)から文化(1804~1818)の初めにかけて江戸の町々には「徳平が膏薬」を売り歩く人が何人もいた。初期の頃は𨦇箱を担ぎ脇差を差していたというから「与勘平」膏薬売りのようなものだろう 与勘平は浄瑠璃『蘆屋道満大内鑑』に登場する奴の名前だが その姿形をそっくり真似たことからそう呼ばれた その奴姿を再び真似たのが 初期の「徳平が膏薬」である 後には省略したりしたというのは 売子        が増えすぎて手が廻らなくなったか
売り声は「奥州仙台岩沼の徳平が膏薬ハ あれやこれやにやきかなんだ あかぎれなんぞにやよくきくそうだ ひびしもやけの妙薬」というようなものであった『続飛鳥川』に次のように載す

寛政の頃 小さき鋏箱の様なる箱をかつぎ 始めは脇差を差し 後には脇差なきも有り奥州仙台岩沼の徳平が膏薬はねっからさっぱりきかなんだ
只赤ぎれなんどによくきくそうだと云てあるく 幾人も同じ様にて歩行十年余流行文化の頃まであり(『続飛鳥川』)

 幕末の考証家・石塚豊芥子(1791~1861)も 嘉永六年(1853)の序を載す自著『近世商賈尽狂歌合』へ 幼少
期の記憶として「徳平膏薬」を挿絵と共に載せる しかし『続飛鳥川』の記述とは異なり、虚無僧のような天蓋を被る。

予(石塚豊芥子)幼き比(頃)は多く売りあるきし 其もの功能を述る詞に 
「奥州仙台岩沼の徳平が膏薬ハ あれやこれやにやきかなんだ あかぎれなんぞにやよくきくそうだ ひびしもやけの妙薬 ト云ツツあるきしなり 又所々江取次売あり 其看板ニ如此の看板ありし 名前町名ハ忘れし

 続いて「ある随筆」からとして 次の話を載せる

或随筆 徳平ハ鎌倉河岸に住居ス 膏薬を(以)て所々をあるきて産業とす 然るに文化初の比(頃) 蝦夷地公儀かかりとなりて 御勘定奉行石川左近将監殿(1756~836)御目附遠山金四郎殿(1793~1855)、其外にも小役人数多手附として彼地へ渡り所々順見して改正し 夫々下知をなす 此時壱人の御(小)普請役何某 徳平と懇意ゆへ 彼を伴ひ彼地へ渡り 石川殿の案内をするに 殊之外くわし 是徳平が教し故也然ルに此御(小)普請役彼地にて病死せり 依而案内に差支けるに付 石川との(殿)徳平を呼ンで 其方ハあの者の家来なるや 私事雇われ来りしものニ候 いつ(一)躰ハ日本国中膏薬を売あるく徳平と申ものと答ウ石川殿 其方 公儀役人に抱入ありて一ケ年金十八両四人扶持遣べし 御家人になり帯刀いたし御(小)普請役相務候べくや徳平申にハ私ハ武芸ハ存せず筆算も自分用位にて 是御承知ならバいかにも御案内仕り可申と申ニ付金四郎殿請合ニ而徳平御(小)普請役被仰付ケ条申渡し其方苗字ハいかにと御尋に 私風情何か苗氏(字)あるべしと申ス 石川殿然バ生国は何くにや 出羽の最上にて候ト申 爰ヲ以て石川殿 最上を氏とし徳平を改徳内ト称しける 蝦夷御用を首尾よく相勤 其後諸国山々の材木(を)伐出し 御褒美頂戴しける 屋鋪ハ小石川金剛寺坂上 子供二人 惣領ハ御留守居与力へ嫁ヶ(二百卅俵) 今一人は平松何某へ嫁す 是徳平の略伝也
(『近世商賈尽狂歌合』    国立国会図書館蔵)

 北方探検で知られる最上徳内(1755~1836)は 生涯に九度蝦夷地へ渡ったとされるが中でも近藤重蔵(1771~1829)一行を先導して択捉島へ渡った(1798)ことは教科書にも載せているほどである。そんな徳内が北方探検へ向かう嚆矢となったのが右の話だとすると、既に中年期を過ぎていたことと思える。
何れにしろ、最上徳内の伝記には曖昧なものが多い。二十六七歳までは空白のまま。その後についても伝説まみれ。因みに徳内の出身地とされる山形県村山市の「最上徳内記念館」は次のように紹介。
 最上徳内は宝暦五年(1755)生まれ。幼名を元吉。青年期には谷地(河北町)の煙草屋に奉公し、仙台や南部・津軽まで行商に出かけたといわれる。勉学に優れた才覚を見せ、若い頃から蝦夷地への往訪や武士として立身することを目指していたとも伝えられる。
天明元(1781)年、江戸に出、幕府の医官・山田宗俊(山田圖南)のもとで医学を学ぶ。その後、永井正峯の塾で和算を学ぶ一方、生涯の師となる本多利明の音羽塾に入門し、天文学や測量・航海術などを学び、蝦夷地に関する知見も得る。
天明五(1785)年、老中・田沼意次はロシアの南下政策などに対応するため、青島俊蔵ら五名を普請役とする蝦夷地検分隊を派遣。本多利明の推薦を受けた徳内も竿取としてこれに加わり、以後八回の幕府蝦夷地探検に従事し、功績を挙げた。

 右に述べる生涯と『近世商賈尽狂歌合』が載せる膏薬売りからの出世噺はあまりに違う。地元民は実際以上に飾るのは常であるが こうまで違うと何らかの確認作業が必要である。歴史考証家を自認している私にとっても魅力的な課題ではある。何れ取り組みたいとは思うが今はそれに時間を割く余裕はない。ほかの課題を解決した後でも未だ誰も手を付けていなかったら取りかかることにする。
『近世商賈尽狂歌合』は 別名『仕出し商人尽し歌合』とも呼ばれており 本文部分については 本紙でも何度か紹介したことがある。しかし後半の附録部分に関しては殆ど手つかずのままである。 今回紹介した「徳平が膏薬」は附録の最初に載せるものである。この本文に載せる「或随筆」だけは確認したかったが、未だ辿り着かない。僅かに朝倉無声の「諸式風俗考」が引用する『ささちまき』(写本)が載せる「徳平膏薬売」が 豊芥子の「或随筆」と瓜二つである。「やれ嬉し」とよろこんだのも束の間、今度は『ささちまき』原本に行き当たらない。パソコンを駆使して漸く大田南畝全集中の〔「瑣々千巻(ささちまき)」(文化八年四月成)自筆稿本不明 伝本国立国会図書館〕に辿り着いた。しかし、それには徳平が膏薬は載らず。解説に次のようにあった。〔斎藤月岑筆録叢書『翟巣漫筆(てきそうまんぴつ)』全三十巻のうち巻五(天保十四年十月筆写)に収納。(『瑣々千巻』は)元来七巻本であったが第一巻のみ確認 外は所在不明〕
 結論から言えば、現在の私にこれ以上の詮索は難しい。因って今回本紙に掲載したものを当面の原本とする。
翟徳平が膏薬の次に載せるのは「熊の伝三膏薬」だが、已然本紙に載せた方が詳しいので省略する。
 続く「伊吾餅」「忠臣義士おこし」は、共に赤穂義士にあやかったもの。「俵ころばし」「茶盆(さぼん)売」(=シャボン玉売り)も已然取り上げたため省略。
○鎗持奴
筥を首にかけ、鎗もち人形麁末なる細工にて竹の上に付麻糸もて足のはたらきあり あるきながら大声にて「エー下に居ろ下に居ろ冠りものをとれとれ 女はイイイイ」などと戯れ言つつ商ふ事なり
○大丈夫
 是は旧来よりの与次郎兵といふ人形なり。指の先キヘ此人形を立て「としはよってもマダマダマダ大丈夫シャントコイシャントコイ」是鬻者は前のやり持人形と同人也。替替売し。
此竹、柚ノ上方え付しと覚ゆ。古代如斯哉。考を待のみ    木風子書
○のぼるはのぼるは 下るは下るは
二人リにて、一人リは唐人姿 手に長き笛を持。今一人リは常体にて 四文ヅツにて見せる。羽子板の如き板に二寸程の丸き硝子をはめ
是を子供にもたせ、右の唐人、其眼鏡の先に立て笛を吹。又は両手をふりあげ抔して半丁程も行と 子供の持しめがねを上下にかへして見せることなり。一人リは小児のかたはらにたちて おかしげなる声にて「ソリャのぼるはのぼるはいかづちめのこでほにほろほにほろ。下るは下るは」
○糸車のこま
 さしわたし二寸位の丸き土にて造たる物を二ツあわせ、尚其中を二分ほどあけ 此うちに竹にやつなぎあらん。是へ赤きもめん糸を巻付親ゆびと人さし指にて先キを持。釣さげては引あげ引あげするに 其の工合甚だ妙なり。一ツを価四文にてひさぐ。
近世畸人伝所載の手車の翁と云は此類ひにや

「糸車」「手(て)車(ぐるま)」は今いうヨーヨーである。享保(1716~36)の初め頃京都で売られたのを嚆矢とする。『近世畸人伝』は左記のように書く。

享保のはじめ京に手車といふものを売る翁あり。糸もてまはして是は誰かのじゃといへば、これはおれがのじゃと答へて童べ買てもてあそぶ。されば此人、いでくれば、童つどひて喜ぶ事なりし。後ハまた難波に往て売こと京の如くして。終にとある家の軒の下に端座して死す。傍に小さき卒塔婆を建て
小車のめぐりめぐりて
今ここにたてたるそとばこれはおれがのじゃ
と書きつけたり。いかなる人の世を翫びてかかりけんとその時を知る人語りぬ。(『近世畸人伝』)

 これの流行は間もなく江戸へも伝わったようである。

取替平
江戸の町には不要品と飴などを交換する「取(トツ)替平(けべい)」という商売があった。不要品といっても何でもいいわけではなく、何らかの役に立つものでなければならなかったことは、昨今の交換下取り屋と同じである。
「壊れた○○や使われなくなった○○等何でも構いません」といいながら、何かの役に立たなければ決して受け取らないことは同じである。今は電化製品やパソコンなどが多いが、当時は金属や古傘が多かった。銅や鉄などの金属は、溶かしての再利用ははわかるが、古傘はわからない。そんなもの集めて如何するんだと思われるが、ちゃんと利用目的があった。
 現在でも番傘は売られているが、実用品というより民芸品扱いである。それでも材料は昔ながらの竹と紙で出来ている事に変わりはない。
 お客から引き取った傘は丁寧に竹と紙にわけ、それぞれ再利用された。状態のいい竹はもう一度別の傘の骨組みに使われ、そうでないものは焚き付けとして利用。紙(油紙)は、水を通さないので昨今のビニールと同じく濡れて困るものを包むための包装紙として再利用された。
 大道芸の会会員募集 
 ワシントン条約は言わずもがな芸能界からさえ無視され続けられている絶滅危惧種「日本の大道芸」を一緒に伝承しませんか 稽古日は左記の通りです
●第三五七回目 九月八日(水(すい))

●第三五八回目 十月十三日(水(すい))
時間・午後六時ー七時半
場所・烏山区民センター 大広間(二階)

 歴史や時代背景等学問的知識を学び、技術を向上させたい人の、学習会や特別稽古も行います(一名から)
●日時 ・場所(随時)

 随時HP掲示板(ほーむぺーじけいじばん)等で通知


編集雑記
大道芸絶滅までのカウントダウンが始まろうという矢先 『日本大道芸事典』が増刷分も含め完売したという。全国的に見ても演者が十人を切った現在 伝承は時間との勝負 日々危うくなっている。何れ絶滅したら右の事典が 日本にも大道芸が存在していたことを伝える唯一の証拠物件?になるかもしれない。但し 歴史は伝えられても啖呵口上は口伝以外難しい。実際に伝承は難しかろう 嗚呼!

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