大道芸通信 第346号

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女(娘) 義 太 夫
義太夫節は浄瑠璃語り・竹本義太夫(1651~1714)が始めた浄瑠璃の流派である。竹本義太夫を名乗ったのは延宝八年(1680)頃からとされる。貞享元年(1684)、大坂道頓堀に竹本座を開場して座本となり、旗揚げ公演に近松門左衛門の『世継曽我』を語り評判となった。こうして近松門左衛門作竹本義太夫語りの組み合わせが始まった。
義太夫節隆盛の影響を受けて、女義太夫が始まったのは文化文政(1804~30)頃といわれるが、水野忠邦による天保の改革(1841~43)で短期間で禁止された。詳細についてはこれからの課題である。
何れにしろ 寄席への出演は禁止されていたようだから、葭簀張りの中で興行していた。左の挿し絵は一九の『金儲花盛場』(文政十三年・1830刊) が載せるものある。
煙管を加えた客や太夫を覗き込んでいる客は、浄瑠璃など聞かず顔やからだを眺めてかりいたようである。ここら辺が女芸人禁止の理由とされたようである。
これが解禁されるのは明治十年(1877)、寄席取締規則によって、女芸人が認められるようになってからという。以来寄席で大人気となったようである。
明治十五年(1882)、一門を引き連れて名古屋から東京へ移り来た竹本京枝や同十八年(1885)大阪の竹本東玉も門下とともに東京へ移住したため、東京での娘義太夫寄席は益々盛んになったようである。
 一方、大阪では豊竹呂昇が席捲し、明治二十年(1887)に大阪から東京へ拠点を移した竹本綾之助は空前の人気となり、芸能界の人気を歌舞伎と二分する程だった。
 その頃から大正初期にかけて流行ったのが「どうする連=堂摺連」である。現在のアイドルへの追っかけよろしく、娘義太夫の追かけをしていた連中のことである。彼らはクライマックスが語られる処へ来ると「どうするどうする」と、一斉に声を掛けていたそうだ。中でも熱狂的なファンは、手拍子を打ち茶碗の底を摺り合わせたりしていた。
 挙げ句、娘義太夫の乗る人力車の後押しをしたり、熱演のあまり日本髪が乱れ、簪が髪から落ちる(演出)と、それを取り合ったりして、場内が混乱することもあったという。
作家の志賀直哉や木下杢太郎、高浜虚子等も若い頃は通い続け、娘義太夫たちへ大いに貢献したようである。しかし日露戦争(明治三十七~三十八年=1904~05)が終わった頃から、浪花節や薩摩琵琶に取って代わられ、その人気も急速に衰えた。
か  ぶ  き

「かぶき」の語源は「傾(かたむ)く」の古語「傾(かぶ)く」の名詞的な使い方だといわれる。
戦国時代末期から江戸初期にかけて、京で流行った派手な衣装や異形、常軌を逸した行動等を指した言葉である。同時にする人を「かぶき者」と呼んだ。そんな「かぶき者」の斬新な動きや派手な衣装を取り入れた特異な踊り「かぶき踊り」が慶長年間(1596~1615)の京で一世を風靡した。これが今日に連なる「歌舞伎」のはじまりとされる。
「かぶき踊り」は女性が踊ることが多かったから、「歌舞する女」の意味で「歌舞妓」「歌舞姫」「歌舞妃」などと表記されたが、藩政時代は「歌舞妓」が圧倒的であった。現在使われる「歌舞伎」もないではなかったが、一般に使われるようになったのは明治以降である。
 なお、藩政期には現在の「歌舞伎」に該当する「かぶき」という名称は俗称であり、公的には「狂言」もしくは「狂言芝居」であった]。
かぶきの元祖は「お国」が創始した「かぶき踊」であると言われている。「かふきをとり」という名称が初めて記録に現れるのは、女院御所で行われた芸能を記録した『慶長日件録』慶長八年(1603)五月六日のものである、と。
ウィキペディアによる(但し原書未確認 今後確認する)
 であるなら、お国一座が「かぶき踊」という名称で踊りはじめたのはこの頃かと推測する。
『当代記』(伊勢亀山城主・松平忠明著?元亀元年=1570~慶長二十年=1615)の慶長八年四月十六日と七月三日の間に次のようにある。
(慶長八年)
四月十六日伏見へ帰城也。
此比かふき踊と云事有。是は出雲国神子子女(名は国、但非好女)仕出、京都江上る。縦は異風なる男のまねをして刀脇差衣装以下殊異相、彼男茶屋の女と戯る体有難したり。京中の上下賞翫する事不レ斜。伏見城えも参上し度々踊る。其後学レ之かふきの座いくらも有て諸国へ下る。但江戸右大将秀忠公は終不二見給一。
七月三日、将軍(以下略)
(『当代記』)
醜女であるお国は男の格好をして刀脇差しを指し、茶屋女と戯れる様を踊り演じたというのである。更には伏見城へも度々招かれ踊っていた。そのご、これを見ていたからだろう。多くの歌舞伎踊りの組織が出来諸国へ散らばっていった。
その後歌舞妓踊りは遊女屋で流行したという。だからこれを「遊女歌舞妓」というそうな。同じころ、陰間茶屋でも流行った。こちらは若い男ばかりだったので「若衆かぶき」というようになった。字は、遊女歌舞伎同様「若衆歌舞妓」のままであった。
 理屈は簡単。男娼に女偏がついているのは、娼婦は元来女だったことの名残だし、女義太夫に限らず芸者に、男みたいな名前が多いのも、元は男の商売だったからである。 お國は醜女だったから判らないが、名古屋山三郎という亭主を持っている。但し、お國よりも更に実在が疑われている存在ではあるが、さほど影響はないだろう。

  名古屋山三郎
名古屋山三郎は蒲生氏郷へ遣え、氏郷死後は森忠政(津山藩初代藩主)へ遣えたという。しかし同僚との折り合いが悪く、喧嘩口論の挙げ句殺されたという。戦国時代に一番槍を取った猛者が、そう簡単に斬殺されるだろうか。
 しかしそれ以上にわからないのは、これだと、お国や歌舞妓と出会う間がない。
もう一つの節は、氏郷や忠政へ遣え死んだまでは一緒だが、お国が歌舞妓踊りを始めたのがその頃からだという。 山三郎自体も大変な伊達男だったから、後に歌舞妓者の範疇に入れられ、お国との関係を創作されたのではなかろうか。それなら納得出来る。 ほかにも山三郎については虚実取り混ぜ伝わるが、虚々実々、嘘と捏(でつ)ち上げを接続詞で繋いだだけのような気がする。それでも(出雲) お国と共に歌舞妓の祖とされているから面白い。なんぼ偉そうに能書きをいった所で、歴史とはそんなものである。 だから面白い。

阿(お)国(くに)が男装してかぶき者を舞台に登場させたころ、山三郎の死が伝えられて巷(ちまた)の話題になったため、舞台上のかぶき者の1人を山
三郎の亡霊に見立てることが行われ、そこから逆に生前の山三と阿国との関係がまことしやかに語り伝えられる結果を招いたものであろう。[服部幸雄]
右の伝説も面白いが、そんなもんだ。

女 力 持 ち
おんな両こく広小路へあらわし(女両国広小路へ現し) いわをとなをとめりたる(巌と名を止めりたる) 女のちからもちにいでけり(力持ちに出でけり) ふねをさす(船をさす) わりゃわりゃわりゃ たはら五ひゃうのうへに(俵五俵の上に) 人をのせてあぐる (『敵討垣衣摺』)

右は『敵討垣衣摺』(鳥居清経画 安永六年(1777)刊)が載す女力餅である。船をさす(差し上げる)。また俵五俵の上に人を乗せて上げる、とある。
女力持ちと云えば柳川ともよが著名であるからだろう。右の挿し絵を同人と書いてあるものが結構ある。
原文を読めばわかるように、「おんな」と書いてあるだけで名前は描いてない。
しかし、柳川ともよが気になるので調べてみたら、風来山人(平賀源内)の『力婦伝』に出てくる。
《楽屋新道の賑はひ。いかなる事かと見れば「大坂下り 女ちからわざ ともよ」と染め抜きの大幟。木戸口のやっさもっさ大入とは云うもおだまき。くるくる車に俵の曲持 つくづく感ずる臼のれんまん。うつつをぬかす基盤のかねあひ。誉める声は高けれど、安いは木戸銭廿四銅。四人合せて百せんの雷一度に落るが如く也。柳此(ママ)
ともよは此度大坂表よりお江戸見物のために罷り下りしを相頼み各々様へお慰みのため御覧に入れ奉ります。といふは表向きの口上にて実は大坂の者にあらず。北陸道の北の方、越後国のかたほとりに。山岡が末葉にもあらず、酒呑童子の親類にもあらず、上杉家の臣下にもあらず弘智法印の檀家にもあらず。高田近郊の産れ也。其の容貌美にして膚はゼンマイの綿のごとく、ぽちゃぽちゃやわやわと、しかも雪国の白きを見せ、皮薄なる事めし縮の如く。湯上りの姿は塩引きの色を帯たり。越後国の大坊主も首の有竹延ばしつべき風情。更に力者のあらくれたるさまにあらず。故ありて江都に来たり大根畠に住する事又故あり…》 どうです。中々魅力的でしょう。今ならミスユニバースにでも選ばれそうですが、時代が悪かった。活字本があるので興味のある方は。

 大道芸の会会員募集 
「南京玉すだれ」や「がまの膏売り」など古来から伝わる庶民の伝統文化「大道芸」を一緒に伝承しませんか。練習日は左記の通りです。
●第三四四回目 九月十六日(水(すい))予定
●第三四五回目 十月十四日(水(すい))
●第三四六回目 十一月十一日(水(すい))
時間・午後七時ー九時
場所・烏山区民センター 大広間(二階)
★江戸の物売りと大道芸★
 十月四日(日)十一時半~
 主催・深川江戸資料館

 また、歴史や時代背景を学び、或いは技術を向上させたい人(オンリー・ワンやナンバー・ワンを目指す人)のために、一名から学習会や特別練習も行っています。
●日時 ・場所(随時)
 随時HP掲示板(ほーむぺーじけいじばん)等で通知

編集雑記
昨日(八日)の日経新聞文化面に『日本大道芸事典』の事を載せてくれた。大道芸を知らない人が書いたにしては 中々よく纏まっている。但し事典のことには殆ど触れず、大道芸の話に終わったことは残念である。売り上げに貢献するためにも書いて欲しかった。

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