大道芸通信 第345号

大道芸通信第345-①号.jpg大道芸通信第345-②号.jpgすたすた坊主に 後継者?
 すたすた坊主は江戸前期から活躍していたようだが、一般に普及するようになったのは、享保年間(1716~36)以降であり、文化年間(1804~18)頃に最盛期を迎える。これが文政(1818~30)に入ると漸く衰え,記録の上では姿を消す。
これを二百年ぶりに復活させてのは、二〇〇五年(平成十七)に、当会創立十周年記念「平成一七年度(第六〇回)文化庁芸術祭参加公演『江戸東京の賑わい』」でである。
 以来十五年余。何処で演じても大人気である。そんなすたすた坊主の姿形をそっくり真似たすたすた坊主をネット上に見出したので紹介したい。 タイトルは「2019.4.13 Sat.日本橋三井ホール 大江戸百花繚乱物語「日本橋を知れば未来が見える!」」とある。
すたすた坊主が盛んに出入りしていたのは、越後屋などの大店が集まる日本橋は第一の稼ぎ場所であっただろうから、目の付け処は中々いい。当会に来ればもっと面白いものを色々教えてやるのに惜しいことである。
 二〇〇五年に初めて復活させた佐藤文幸師は、同時に「一筆龍」の大家でもある。「龍」や「愛」など客の求めに応じて、縁起のいい文字を一筆で書く一筆龍は、龍の本体蛇の鱗「蛇紋」が現れるのである。(下記参照) 現在これが出来るのも佐藤師ただ一人である。
重々しい一筆龍を見せた後すたすた坊主が現れると、その落差に皆唖然とする。「折角一筆龍に感激していたのに がっかりした」と否定的に捉える人がいる一方、「早変わりが面白い」「いやー 吃驚した 感動した」
と肯定的に受け取る人も多い。私は この落差が面白いと、積極的に評価している。何処のどなたか知らないが、折角すたすた坊主を真似るなら 一筆龍も是非 習得して貰いたいものだ。
そのかわり修行は厳しいよ。最低十年はかかる覚悟がないと難しい。反面修行に耐え、自己研鑽を積んだら、少なくともオンリーワン。ナンバーワンになれることを補償する。

甘酒は夏が旬(しゆん)であった?
 最近では冬が旬と思われている甘酒だが、元々夏が旬のものであったとされる。しかし『万葉集』第五巻が載せる山上憶良の「貧窮問答歌」に出てくる「糟(かす)湯(ゆ)酒」が甘酒といわれるが、冬の飲み物として出てくる。

風雑(まじ)り 雨降る夜の雨雑り 雪降る夜はすべもなく 寒くしあれば堅塩(かたしお)を 取りつづしろひ糟(かす)湯(ゆ)酒(さけ)
 うち啜(すす)ろひて咳か(しはぶ)ひ 鼻びしびしに しかとあらぬ 髭掻き撫でて 吾(あれ)を おきて 人はあらじと 誇ろへど 寒くしあれば 麻衾(あさふすま) 引き被り(かがふ ) 布(ぬの)肩(かた)衣(きぬ) ありのことごと 着襲(そ)へども 寒き夜すらを 我よりも 貧しき人の父母は 飢ゑ寒からむ 妻子(めこ)どもは 乞ひて泣くらむ この時は いかにしつつか 汝が世は渡る    (『貧窮問答歌』)

冬の飲み物として登場した甘酒が、夏のものとして売られるようになったのは何時からか。『守貞謾稿』は、次のように書く。
京坂は専ら夏夜のみ之を売る。専ら六文を一碗の価とす。江戸は四時共にともにこれを売り、一碗価八文とす。(中略)江戸は真鍮釜を用ひ、あるひは鉄釜をも用ふ。鉄釜のものは、京坂と同じく筥中にあり。京坂必ず鉄釜を用ゆ。故に釜皆筥中にあり。
『塵塚談』に云ふ。醴売( あまざけ )りは冬の物なりと思ひけるに、近ごろは四季ともに商ふことになれり。我等三十歳頃までは、寒冬の夜のみ売り巡りけり。今は暑中往来を売りありき、かへって夜は売る者少なし。浅草本願寺前の甘酒店は古きものにて、四季にうりける。その外に四季に商ふ所、江戸中に四五軒もありしならん。 (『守貞謾稿』) 
『守貞謾稿』は、天保八年(1837)に起稿、約三十年に亘り書き綴られた風俗百科事典。
 一方『塵塚談』は、江戸時代中期の医師小川顕道(あきみち)(1737~1816)が書き綴った随筆。享保五年から宝暦三年(1720
~53)頃の風俗について記す。『燕石十種 第一』文化十一年(1814)が載す。顕道が三十歳頃までは、寒い冬の夜だけ売り歩いていたというから、江戸では冬のものであった期間の方が長そうである。
 小川顕道とほぼ同じ時代を生きた、京都住まいの与謝蕪村(1716~84)に、甘酒を詠んだ「御仏に昼供へけり ひと夜酒」という句がある。
 出来上がったばかりの甘酒を、まずは仏様にお供えしたのである。「ひとよざけ」は甘酒の異名、一晩で出来ることが由来である。季節は、歳時記通りの夏である。

暑い時に熱い甘酒を吹き吹き飲むのは、かえって暑さを忘れさせるので、夏に愛用される。
(平凡社『俳句歳時記 夏』)

 江戸では冬の飲み物であった甘酒が、明和四年(1767)頃には、一年中売られるようになった頃である。これが俳句に合わせて、夏の飲み物になるのは何時からであろうか。天保年間(1830~44)以降、幕末までの間であろうが、或いは江戸が東京へ変わった明治(1868~)にまでずれ込むかも知れない。しかし資料を探し切れていない今は結論を出せない。今後の課題として、未詳のままにしておく。

湯(ゆ)出(で)菽(まめ)(枝豆)売り
 三都(京坂江)ともに夏の夜売り歩いた。これを売り歩くものは困民が多かった。男女ともいた。京坂は「湯出さや湯出さや」と売り声を上げていた。鞘豆と呼んでいたからである。江戸ではこの豆を枝豆といっていた。従って売り声も「枝豆や枝豆や」といっていた。江戸は女がおおかった。だから菽籠を懐き、男の多い京坂は肩で担っていた。江戸は菽の枝を取らないまま売っていたから枝豆といい、京坂は枝を取るが鞘つきのまま売っていたから鞘豆と呼んだのである。現在は、京坂仕様だが、呼び方は江戸の踏襲である。
専らスーパーに並べられ、売り歩く人はいない。

京坂にあって江戸にない生業
黒木売り 洛北八瀬 および小原(大原)から出て、薪柴等を洛中売る。必ず女性の業である。また必ず頭上に戴き巡る。その夫は朝廷の駕輿丁(かよちよう)
(朝廷所属の下級人足)であると。それが事実かどうか髻(もとどり)の形が他と異なり、皆月代(さかやき)を剃らない。時には階子(梯子)や拍盤(うちばん)(打ち盤のこと)、横槌(砧や藁を撃つときに使う槌)等を戴き、大坂や諸国を巡って行商する。夏には忍草や和海(わか)布(め)等も売る。なお拍盤や横槌は擣衣(とうい)(砧で衣を打つこと)の道具である。

艾(もぐさ)売り
近江伊吹山産の艾を第一とする。同国柏原駅(宿)に茂草店が多い。中でも亀屋左京が老舗である。これの売り子は皆旅人に扮して「江州伊吹山のふもと柏原本家亀屋左京薬艾はよう」と売り声を立てる。京坂は袋艾だけを使う。江戸は専ら切もぐさを使う。小網町に釜屋という艾店四五軒あって名物となっている。

乾物売り 
鯡(にしん)昆布巻売り
乾物売りは、椎茸・木耳・干瓢・大豆・小豆・ひじき。ぜんまい・刻み海布(こぶ)・昆布・かづのこ・ごまめ・干(ひ)鱈(だら)等を売る。江戸は店売りしかない。京坂は店売りと担い売りの両方ある。また、ひじき・ぜんまい・棒鱈・鯡・数の子・そら豆等を浸して売ることもあるが、共に江戸にはない。ただ数の子の浸したものだけは、江戸でも冬になると、稀に魚売りが担い売ることもある。
鯡を江戸で食べる人は滅多にいない。専ら猫の餌とするだけである。京坂では自家で煮る。或いは昆布巻きにする。ただ陌上(はくじよう)(「陌」は道。つまり路上)担い売りは、昆布巻きを製す。担い箱及び鍋は、釜を鍋に変えただけだから、甘酒売りに似る。

 大道芸の会会員募集 
「南京玉すだれ」や「がまの膏売り」など古来から伝わる庶民の伝統文化「大道芸」を一緒に伝承しませんか。練習日は左記の通りです。
●第三四三回目 九月九日(水(すい))
●第三四四回目 九月十五日(水(すい))
時間・午後七時ー九時
場所・烏山区民センター 大広間(二階)

★江戸の物売りと大道芸★
 十月四日(日)十一時半~
 主催・深川江戸資料館

 また、歴史や時代背景を学び、或いは技術を向上させたい人(オンリー・ワンやナンバー・ワンを目指す人)のために、一名から学習会や特別練習も行っています。
●日時 ・場所(随時)
 随時HP掲示板(ほーむぺーじけいじばん)等で通知

編集雑記
今月はすたすた坊主と『守貞謾稿』のお世話になった。最初はすたすた坊主特集にしようかとも思ったが、これまでに何度も発表しているから、とても紙面を埋めるだけの新資料がない。やむを得ず『守貞謾稿』の世話になる。こちらも随分世話になったが、江戸とは違う京坂を取り上げることで重複は避けた。

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