大道芸通信 第338号ー①

href="https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/005/008/43/N000/000/000/157802061223867000276.jpg" target="_blank">大道芸通信 第338-①号.jpg大道芸通信 第338-②号.jpg
江戸の正月

松の内も過ぎた今頃になって「何が江戸の正月だ」と怒られそうな気もするが、ジングルベルも鳴らん前に正月の話もないだろうと今まで待った。という必要もないか。何故なら陰暦(旧暦とも云う)なら、今月二十五日が一月一日だし、当区民センターの「新年子どもまつり」は、毎年二月十一日である。肩身の狭い思いなどをする必要はない。
 ということで、大抵の人が知らんだろう江戸の正月について書いてみる。

   初日の出

江戸の正月は静かだが朝は早い。中でも初日の出を拝む人たちは、月明かりの全くない大晦日(おおつごもり)(大月籠(つきごもり)=新月)の夜道を、黙々と目的地まで歩いた。今は殆ど埋め立てられたから消えてしまったが、高輪や芝浦など海に面している場所や愛宕山など海の見える高台であった(現在は見えない)
 
  新年の祝い

一方町中は、初日の出を終えた人たちが家路につく頃から起き出した。家長が若(わか)水(みず)を汲み、その水を湧かしてまずは福(ふく)茶(ちや)を飲み、雑煮を煮て新年を祝った。
若水は、新年の初めに汲みあげる井戸水のことである。江戸の水道は、蛇口をひねると水が出るものではなく、文字通り水の通る道、台であった(現在は見えない)

   新年の祝い

一方町中は、初日の出を終えた人たちが家路につく頃から起き出した。家長が若(わか)水(みず)を汲み、その水を湧かしてまずは福(ふく)茶(ちや)を飲み、雑煮を煮て新年を祝った。
若水は、新年の初めに汲みあげる井戸水のことである。江戸の水道は、蛇口をひねると水が出るものではなく、文字通り水の通る道、へ参詣すること。氏神への初詣は、元来「歳籠(としごもり)」であった。家長が大晦日の夜から元日の朝にかけて氏神の所へ籠る(歳を越えて籠る)ことであった。今年一年無事に過ごせた事への感謝と、新年の無事と平安を祈るためである。
大晦日の「除夜詣」と元日朝の「元日詣」に分かれた姿が今の除夜の鐘と初詣である。なお、今みたいに氏神と全く切り離された初詣をするようになったのは、明治も半ば以降。そのころ発達した鉄道会社が、自社が経営する鉄道沿線にある寺社への誘客運動の一環として行われたのが最初である。現在も某鉄道会社が高雄山や薬何とかいう寺への梃入れの様を見ていれば、推察できるかも知れない。

   鳥追いと小鰭の鮨売り

元日をゆっくり過ごしたからであろうか、二日になると早朝から全てのものが動きだした。初荷や町火消しの出初は勿論、太(だい)神(かぐ)楽(ら)、鳥(とり)追(おい)、万歳、小(こ)鰭(はだ)の鮨売り、宝船や暦売り、文武の稽古始めなども一斉に始まった。中でも江戸に独特なのが、「鳥追」と「小鰭の鮨売り」である。
鳥追とは元来、農村での害鳥駆除と豊作を願う小正月行事のことである。拍子木や太鼓などを賑々しく叩きながら大声で歌い歩くのも、害鳥を追い払うための有効手段だからである。これを真似たのが、年末に現れる「節季(せき)候(ぞろ)」と年始の「鳥追」である。 当時の風俗百科事典『嬉遊笑覧』に「毎年朧月(十二月)より節季候となり、元日より十五日まで鳥追となる」とあるように、現れる時期が違うだけで、元は同じであった。 鳥追については『守貞謾稿』が「今は京坂にはいないが、江戸には沢山いる。しかも男ではなく女太夫がしている」と書いている。女太夫とは、普段から二三人連れで三味線や胡弓(二胡ではない)を弾き語り歌う、いわばストリートミュージシャンのことである。これを元日(実際には二日)から十五日までに限り「鳥追」と呼んでいた。普段の菅笠を編笠に換え、一段とおめかしして着飾り、目出度い歌を唄い金銭を受けていた。
江戸の鳥追が女太夫であったのは、江戸が極端な男社会だったからである。単身赴任の武士が人口の半分、残りの半分も僧侶をはじめ、農家の次男や三男などの出稼ぎ者が多かった。『熈代勝覧』は、今川橋から日本橋までの当時の繁華街を描いた絵巻だが、全部で一六七一名の人間が描かれているが、内女性は約二〇〇名だそうである。よくぞ算えたとは思うが、率にすると凡そ十二%足らず。幕末近い文化二年(一八〇五)頃になってもそんなに差があったのかと改めて驚いた。
それだけに女太夫(鳥追)にとっては、武家屋敷長屋は最も稼げる場所であった。一度の投げ銭収入が市中の十倍、二十倍と貰えたからである。逆に言えば、武家長屋住まいはそれ程の侘び住まいであった。まして人恋しくなる正月は、普段にも増して心寂しく気は立っていた。そんなところへ割竹を叩きながら大騒ぎする節季候姿で行ったら、騒動の種を蒔くようなもの。
 ここは一つ、割竹を三味線に持ち替えた女太夫こそが相応しい。「鳥追」へ変じた女太夫が、市中へ繰り出していた。
 同じころ、渋いながらも能く通る声で売り歩いたのが、「小鰭の鮨売り」である。
「坊主騙して還俗させて 小鰭の鮨でも売らせたい」という都々逸が流行ったほど声の魅力で売っていた。
蓋の上に紅木綿をかけたすし箱を重ねて肩へ担い、水浅葱の染め手拭いは勿論、衣類股引腹掛から足袋草履に至るまで新調し、正月二日から「小鰭のすしい」と売り声を上げながら歩いていた。
『守貞謾稿』も「重ね筥に納めて之を肩にす(中略)初春には専ら小はだの鮨を呼び売る」とある程、江戸の正月には欠かせない光景であった。

   扇箱買いと餅網売り

 当時年始の挨拶廻りには、扇の入った「扇箱」を配ることになっていた。扇といっても立派なものではなく、「ばら、貰いの少ない家では、わざわざ扇箱を買ってまで積み上げていた。
 そうまでして集めた扇箱も、松の内を過ぎると不用になる。心得たもので、来年用に扇箱を買い集める者がいた。それが扇箱買いである。「売る内にもう買いに来る扇箱」という川柳は、人より先に買い集めようと繰り出す扇箱買いを皮肉ったものである。
 小正月ころに餅網売りが来ると、子供たちも正月遊びをやめさせられ、正月が終わったことを実感させられた。此の餅網は、餅を焼く網ではない。六月一日の「富士山氷溶(こおりと)かし(山開き。現在は七月一日)」まで、氷餅(かき餅)を入れ保存しておくための網である。
 六月一日は、「氷室御祝儀」として、幕府は貯蔵していた天然氷を食べる日であった。民間では、『東都歳事記』が、「町屋にても旧寒水を以て製したる餅を食してこれに比(なぞ)らう」と書いているように、寒の時期に舂(つ)いて餅網に入れて貯蔵していた「氷餅」を代わりに食べていた。
 こうして正月が終わり、大人も子供も楽しみにして居た二月の「初午稲荷祭」の準備を始めたのである。

    節分の太鼓

 現在では初午(はつうま)など何時のことかと忘れられた習慣である。しかし、江戸の庶民にとっては、お正月よりも待たれていたのが初午である。普段は近づくことの出来ない大名屋敷も含め、一斉に門を開き、屋敷(やしき)稲荷(いなり)への参拝や庭園の見物を誰にでも許したからである。 子供達は太鼓を叩きながら稲荷を祀(まつ)る家々を廻(めぐ)った。お菓子などが配られたからである。そのため、正月(一月)の二十日過ぎから初午前日まで、子供達が叩(たた)く太鼓を売りに来た。

《太鼓の大中小、外に〆太鼓カンカラ太鼓の類を天秤に荷(にな)ひ、ドンドンドンと打鳴しながら、市中へ売りありくは例年正月二十五六日頃よりなり》(『江戸府内 絵本風俗往来』)

 大道芸の会会員募集 
「南京玉すだれ」や「がまの膏売り」など、古来から伝わる庶民の伝統文化「大道芸」を一緒に伝承ませんか。練習日は左記の通りです。
●第三三六回目 二月十二日(水(すい))

●第三三七回目 三月十一日(水(すい))予定
時間・午後七時ー九時
場所・烏山区民センター 大広間(二階)

 また、歴史や時代背景を学び、或いは技術を向上させたい人(オンリー・ワンやナンバー・ワンを目指す人)のために、一名から学習会や特別練習も行っています。
●日時 ・場所(随時)
 随時HP掲示板(ほーむぺーじけいじばん)等で通知

編集雑記
江戸が東京に代わって百五十年も経つと、当時のことは大抵分からなくなる。普通はそれでいいが、江戸の物売りや大道芸を伝承する私たちはそれではいけない。動画や音声は残ってはいないが、可能な限り元の姿を追い求める。多分こうであったろうと推定復元復活する。一方、現代にも通用するよう、最小限の変更は加える。私たちは化石ではない。矛盾するが、伝承とは変化することでもある。

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