大道芸通信第337号


右書は廃姓(宮武)外骨の著作だが、好奇心旺盛な著者らしく面白いものが沢山ある。その中からこれ迄本紙に載せてない物を中心に紹介する。
与次郎兵衛の釣合人形
長き竹棒の端に大豆を刺して重心を保つ豆人形。これを一に釣合人形とも云ふが、正徳享保(1711~35)頃の筆写『英一蝶画譜』には、「与次郎売」と題して此絵がある。其前に此釣合人形を湯治郎兵衛といふ人が売弘めたので、与次郎が人形の名になったのであると云ふ。其与次郎が弥次郎に変り、弥次郎兵衛、弥之助などとも呼んだが、此与次郎兵衛の年代は何時頃は不詳である。
一説に、与二郎とは非田寺の乞食の総名で、其の与二郎が売り歩きし故の名匠であるとも云ふ。
博徒の水垢離
享和三年(1803)版の『通人寝言』に左の如き絵が出て居る。これは正徳意義、江戸の川中で行はれた水垢離に議した戯画である。水垢離とは親や夫の病気平癒の祈願として水を浴びるなどをも云ふが、江戸の俗習たりし五月五日、又は六月末より七月中頃までの間に、相州の大山石尊え参詣する者共が、心身を清めんとて浅草又は両国の川に入って 行水した事を云ふのである。
(お百度の例で千垢離ともいふ)此水垢離が最も坂に行はれたのは 宝暦明和の頃であるが、川柳に「石尊は土場から直ぐに思ひ立ち」。「明日たつと切火を呑んで居る」などある如く、博奕で負けた博徒が勝利を祈願せんとえ大山参詣を思ひ立ち、他の衆愚連と共に木太刀を持って水垢離をとる事が、大いに流行したのである。又罪障消滅の祈願でもなく、新人気のない者までが、盆節季の債鬼除けの為めに水垢離連中に加って大山へ参詣した者も多かった。その事は「ととヲは山へかかアは内で言訳し」、「盆山は欠落らしい人ばかり」、「十四日油断をする富山へ抜け」などといふ川柳が証拠立てて居る。
耳の垢取り職人
「貞享四年板『江戸鹿子』、耳垢取り、神田紺屋町三丁目長官とあり、同じころ京にもあり。貞享三年板『京羽二重』、耳垢取、唐人越九兵衛とあり。元禄十一年板『初音噺大鑑』巻之五に、京と江戸ゆききすぢなる通町の辻々を見れば、あるひは歯ぬき、耳の療治云々。正徳六年板『老人養草』にいはく。近来京師の辻々に耳の垢取とて、紅毛人(おらんだじん)のかたちに似せて云々とあれば、元禄の末、正保の比までもありしなるべし。『五元集拾遺』観音で耳をほらせてほととぎす、基角。此の句も耳の垢取の事をいへるなるべし。『一代男後日』(西鶴が二十五年の追善といふ事あり享保二年板なるべし)に、松浦浜平戸といふ所に、わづかなる草の屋をかりて云々。髪を総なでつけにして、長崎一官と名をつき都ではやる耳の療治人の偽せをして、京の一官顔して云々。斯れば当時京に一官といふ耳の垢取ありしならん」(骨董集)
尚「耳垢取の古図」といふのを見れば、頭髪の半ばを網で包み、服装は唐人風の弁髪ある大男が、手に小き耳掻と毛抜の細長いやうあな物を持ち、途上に立って物売人らしい男の耳の垢を取って居る様を描いてある。
丈の高い履物
「明和のころ店名にはじめ迄、高野行人なる由にて、浄衣に城股引てっこう、体は白木綿にて宝冠(ほうかむり)につつみ、其上に菅笠看て、笠の上へ小き手桶に水を入れ、しきみの花をそへて戴き、鐘鼓の大きなるを日参りの如く竪様にはさみてうちならし、高さ一尺二三寸ばかりに、鉄の延がねにてこしらへたる一本場の足駄をはき、町々を遊行するに、心ざす者ありてものとらするに、地に落たる一銭 をも腰かがめて無造作に取りあげ、また立あがりて頭なる桶の水を樒にて両三度手をのべてそそぎ、腰に持ちそへたる経木へ矢立もて何やらんしるし、ねんごろに回向するさま、立居行道、水一滴もこぼさず。誠に錬磨の業にぞありける}笑草』の一節である。此処に挿入せる高野行人の絵姿は、完成十年の版本『四季交加』に出て居るのを模写したのである。此高野行人は天明の初め頃迄とあるが、寛政の末年頃までもあったらしい。(此花)
文化十二年の『芝翫節用百戯通』には芝翫が舞台で一本歯の下駄を穿いて、巻紙を布晒し風に捌いて居る絵がある。一本歯の下駄が流行した余叵波と見るべしであらう。
此の一本歯の下駄は、役の行者が履き初めたのであると云ふが、確かな説ではない。
元禄三年の『人倫訓蒙図彙』には、高野行人の図を載せ て首と云ひ、是といひ、足といひ、少しも油断のならぬ苦しい事であるが、仕かかった職業ゆゑ、止められぬのであらうと附記してある。
疱瘡神を祓ふ赤絵
疱瘡といふ病は伝染性のものであって、古来時々大流行を極めたが、其予防法の行はれなかった時代には、如何にすれば免れ得るであらうか、如何にすればかるくすむであらうかと、無暗に心配した果、伊豆八丈島の者は疱瘡に罹らない。それは源為朝が疱瘡神を退治したからであると云ふ妄想を信じて「鎮西八郎為朝御宿」とかいたかみをおもてぐちにはっておいたり、又家々に疱瘡神の祟り除けとして、赤紙の弊を立て、患者には赤い衣服を着せ、赤の飯に赤い鯛を添へて食はせるなど、赤づくしにすれば軽くすむと云ふ迷信から、赤色摺の絵本に赤居表紙を附け、赤糸で綴じたものを見せればよいなど、誰云ふとなくそれが流行して、文化頃から天保の末頃まで盛んに出版された(此外に赤摺にした一枚絵も出たが、英人ジェンネルが発明した種痘法の日本に伝来した嘉永後には漸々これ等の出版が止んだやうである)、其赤い本は患者たる子供に見せるものであるから、お伽草紙と同じくく、坂田の金時がどうしたとか、兎と猿とが話をしたとか、神張子の達磨や木兎の絵、又は種々遊戯の法を書いたものであるが、元来疱瘡が軽くすむやうにとの呪であるから、其画作中にも軽いづくしで、軽業とか軽焼とか、軽石、軽めら、尻が軽い、手軽足軽口軽噺など、軽いと云ふ事を集めたものも出たのである。(此花)
此疱瘡除けに赤色を用ゐた事は、迷信的のマジナヒなどではなく、今から考へれば紅療法の原理に適した科学的の根拠を有する事であったとの説が近来行はれて居る、医学の雑誌にも「疱瘡患者に赤色光線療法を施せば、有害なる市議選を遮って、強き化膿性炎症を起す事なく、随って患者は良好の経過を取り得るなりとの説は、夙にフヒンゼンの唱へた所である」と見えて居るが、赤色を以て疫神を駆逐し得べしとする伝来的迷信が、科学的療法に偶合したのであるか、又は泰西にては疱瘡患者に赤色の衣類寝具を着せ、赤色の病室に入れて治療せしむとの事を、渡来の阿蘭陀人などから聞いて、それを実行し来たったのであるか否かはわからない。
大道芸の会会員募集
「南京玉すだれ」や「がまの膏売り」など、古来から伝わる庶民の伝統文化「大道芸」を一緒に伝承ませんか。練習日は左記の通りです。
●第三三五回目 一月十五日(水(すい))
●第三三六回目 二月十二日(水(すい))予定
時間・午後七時ー九時
場所・烏山区民センター 大広間(二階)
☆新年子どもまつり☆
●日時・二月十一日(火・祝) 時間未定
場所・烏山区民センターホール
また、歴史や時代背景を学び、或いは技術を向上させたい人(オンリー・ワンやナンバー・ワンを目指す人)のために、一名から学習会や特別練習も行っています。
●日時 ・場所(随時)
随時HP掲示板(ほーむぺーじけいじばん)等で通知
編集雑記
与次郎兵衛が訛って弥次郎兵衛となり、昨今ではヤジロベエとなった。大山詣前の清めで女の水垢離を描いたものは外にはないだろう。嘘か本当か知らないが珍しいので載せた。珍しいと云えば疱瘡(天然痘)神祓いの赤絵も中々ない。本物は赤顔料で摺ったものだが、本紙が白黒だからそれ位我慢我慢。疱瘡神が赤色を嫌う訳は知らないが、今赤色と云えばお婆さんの原宿巣鴨で売る下着の色だ。『奇態流行史』が載せる大道芸
右書は廃姓(宮武)外骨の著作だが、好奇心旺盛な著者らしく面白いものが沢山ある。その中からこれ迄本紙に載せてない物を中心に紹介する。
与次郎兵衛の釣合人形
長き竹棒の端に大豆を刺して重心を保つ豆人形。これを一に釣合人形とも云ふが、正徳享保(1711~35)頃の筆写『英一蝶画譜』には、「与次郎売」と題して此絵がある。其前に此釣合人形を湯治郎兵衛といふ人が売弘めたので、与次郎が人形の名になったのであると云ふ。其与次郎が弥次郎に変り、弥次郎兵衛、弥之助などとも呼んだが、此与次郎兵衛の年代は何時頃は不詳である。
一説に、与二郎とは非田寺の乞食の総名で、其の与二郎が売り歩きし故の名匠であるとも云ふ。
博徒の水垢離
享和三年(1803)版の『通人寝言』に左の如き絵が出て居る。これは正徳意義、江戸の川中で行はれた水垢離に議した戯画である。水垢離とは親や夫の病気平癒の祈願として水を浴びるなどをも云ふが、江戸の俗習たりし五月五日、又は六月末より七月中頃までの間に、相州の大山石尊え参詣する者共が、心身を清めんとて浅草又は両国の川に入って 行水した事を云ふのである。
(お百度の例で千垢離ともいふ)此水垢離が最も坂に行はれたのは 宝暦明和の頃であるが、川柳に「石尊は土場から直ぐに思ひ立ち」。「明日たつと切火を呑んで居る」などある如く、博奕で負けた博徒が勝利を祈願せんとえ大山参詣を思ひ立ち、他の衆愚連と共に木太刀を持って水垢離をとる事が、大いに流行したのである。又罪障消滅の祈願でもなく、新人気のない者までが、盆節季の債鬼除けの為めに水垢離連中に加って大山へ参詣した者も多かった。その事は「ととヲは山へかかアは内で言訳し」、「盆山は欠落らしい人ばかり」、「十四日油断をする富山へ抜け」などといふ川柳が証拠立てて居る。
耳の垢取り職人
「貞享四年板『江戸鹿子』、耳垢取り、神田紺屋町三丁目長官とあり、同じころ京にもあり。貞享三年板『京羽二重』、耳垢取、唐人越九兵衛とあり。元禄十一年板『初音噺大鑑』巻之五に、京と江戸ゆききすぢなる通町の辻々を見れば、あるひは歯ぬき、耳の療治云々。正徳六年板『老人養草』にいはく。近来京師の辻々に耳の垢取とて、紅毛人(おらんだじん)のかたちに似せて云々とあれば、元禄の末、正保の比までもありしなるべし。『五元集拾遺』観音で耳をほらせてほととぎす、基角。此の句も耳の垢取の事をいへるなるべし。『一代男後日』(西鶴が二十五年の追善といふ事あり享保二年板なるべし)に、松浦浜平戸といふ所に、わづかなる草の屋をかりて云々。髪を総なでつけにして、長崎一官と名をつき都ではやる耳の療治人の偽せをして、京の一官顔して云々。斯れば当時京に一官といふ耳の垢取ありしならん」(骨董集)
尚「耳垢取の古図」といふのを見れば、頭髪の半ばを網で包み、服装は唐人風の弁髪ある大男が、手に小き耳掻と毛抜の細長いやうあな物を持ち、途上に立って物売人らしい男の耳の垢を取って居る様を描いてある。
丈の高い履物
「明和のころ店名にはじめ迄、高野行人なる由にて、浄衣に城股引てっこう、体は白木綿にて宝冠(ほうかむり)につつみ、其上に菅笠看て、笠の上へ小き手桶に水を入れ、しきみの花をそへて戴き、鐘鼓の大きなるを日参りの如く竪様にはさみてうちならし、高さ一尺二三寸ばかりに、鉄の延がねにてこしらへたる一本場の足駄をはき、町々を遊行するに、心ざす者ありてものとらするに、地に落たる一銭 をも腰かがめて無造作に取りあげ、また立あがりて頭なる桶の水を樒にて両三度手をのべてそそぎ、腰に持ちそへたる経木へ矢立もて何やらんしるし、ねんごろに回向するさま、立居行道、水一滴もこぼさず。誠に錬磨の業にぞありける}笑草』の一節である。此処に挿入せる高野行人の絵姿は、完成十年の版本『四季交加』に出て居るのを模写したのである。此高野行人は天明の初め頃迄とあるが、寛政の末年頃までもあったらしい。(此花)
文化十二年の『芝翫節用百戯通』には芝翫が舞台で一本歯の下駄を穿いて、巻紙を布晒し風に捌いて居る絵がある。一本歯の下駄が流行した余叵波と見るべしであらう。
此の一本歯の下駄は、役の行者が履き初めたのであると云ふが、確かな説ではない。
元禄三年の『人倫訓蒙図彙』には、高野行人の図を載せ て首と云ひ、是といひ、足といひ、少しも油断のならぬ苦しい事であるが、仕かかった職業ゆゑ、止められぬのであらうと附記してある。
疱瘡神を祓ふ赤絵
疱瘡といふ病は伝染性のものであって、古来時々大流行を極めたが、其予防法の行はれなかった時代には、如何にすれば免れ得るであらうか、如何にすればかるくすむであらうかと、無暗に心配した果、伊豆八丈島の者は疱瘡に罹らない。それは源為朝が疱瘡神を退治したからであると云ふ妄想を信じて「鎮西八郎為朝御宿」とかいたかみをおもてぐちにはっておいたり、又家々に疱瘡神の祟り除けとして、赤紙の弊を立て、患者には赤い衣服を着せ、赤の飯に赤い鯛を添へて食はせるなど、赤づくしにすれば軽くすむと云ふ迷信から、赤色摺の絵本に赤居表紙を附け、赤糸で綴じたものを見せればよいなど、誰云ふとなくそれが流行して、文化頃から天保の末頃まで盛んに出版された(此外に赤摺にした一枚絵も出たが、英人ジェンネルが発明した種痘法の日本に伝来した嘉永後には漸々これ等の出版が止んだやうである)、其赤い本は患者たる子供に見せるものであるから、お伽草紙と同じくく、坂田の金時がどうしたとか、兎と猿とが話をしたとか、神張子の達磨や木兎の絵、又は種々遊戯の法を書いたものであるが、元来疱瘡が軽くすむやうにとの呪であるから、其画作中にも軽いづくしで、軽業とか軽焼とか、軽石、軽めら、尻が軽い、手軽足軽口軽噺など、軽いと云ふ事を集めたものも出たのである。(此花)
此疱瘡除けに赤色を用ゐた事は、迷信的のマジナヒなどではなく、今から考へれば紅療法の原理に適した科学的の根拠を有する事であったとの説が近来行はれて居る、医学の雑誌にも「疱瘡患者に赤色光線療法を施せば、有害なる市議選を遮って、強き化膿性炎症を起す事なく、随って患者は良好の経過を取り得るなりとの説は、夙にフヒンゼンの唱へた所である」と見えて居るが、赤色を以て疫神を駆逐し得べしとする伝来的迷信が、科学的療法に偶合したのであるか、又は泰西にては疱瘡患者に赤色の衣類寝具を着せ、赤色の病室に入れて治療せしむとの事を、渡来の阿蘭陀人などから聞いて、それを実行し来たったのであるか否かはわからない。
大道芸の会会員募集
「南京玉すだれ」や「がまの膏売り」など、古来から伝わる庶民の伝統文化「大道芸」を一緒に伝承ませんか。練習日は左記の通りです。
●第三三五回目 一月十五日(水(すい))
●第三三六回目 二月十二日(水(すい))予定
時間・午後七時ー九時
場所・烏山区民センター 大広間(二階)
☆新年子どもまつり☆
●日時・二月十一日(火・祝) 時間未定
場所・烏山区民センターホール
また、歴史や時代背景を学び、或いは技術を向上させたい人(オンリー・ワンやナンバー・ワンを目指す人)のために、一名から学習会や特別練習も行っています。
●日時 ・場所(随時)
随時HP掲示板(ほーむぺーじけいじばん)等で通知
編集雑記
与次郎兵衛が訛って弥次郎兵衛となり、昨今ではヤジロベエとなった。大山詣前の清めで女の水垢離を描いたものは外にはないだろう。嘘か本当か知らないが珍しいので載せた。珍しいと云えば疱瘡(天然痘)神祓いの赤絵も中々ない。本物は赤顔料で摺ったものだが、本紙が白黒だからそれ位我慢我慢。疱瘡神が赤色を嫌う訳は知らないが、今赤色と云えばお婆さんの原宿巣鴨で売る下着の色だ。