大道芸通信第333号
わいわい天王と
戸塚のお札まき
わいわい天王の天王とは、牛頭天王のことであることはこれまで何度も述べたから 本紙の読者なら誰もが知っていることと思う。 現在戸塚の八坂神社に残る、横浜市無形民俗文化財指定の「お札まき」も多分その系統だろう。
その程度の知識で、お札まきを見に行った。
八坂神社は、戸塚郷の庄司・内田兵庫が、元亀三年〔一五七二〕に屋敷神として勧請した牛頭天王社がはじまりのようである。
《(戸塚宿)牛頭天王社 祭禮六月十四日元亀三年内田兵庫政元と云ものの勧請と云、稲田姫を合祀す村民持。末社。稲荷、疱瘡神》
(『新編相模国風土記稿』) その後没落途絶えたが、元禄元年(一六八八)、子孫の内田佐衛門尉が再興した。これが、今に続いているそうである。明治初年(一八六八)八坂社と改称、昭和七年(一九三二)再度改名して八坂神社となった。
神奈川県神社誌によると、正徳六年(一七一六)、正一位の神号を受けたとある。お札まきのお札に「正一位八坂神社御守護」と書かれてあるのは、これが根拠だろう。オモシロイ!
扨て、あんまし話が逸れん内に、お札まきを見に行ったときのことを書こうと思うが、戸塚と云えばどうしても、大金玉を思い出す。直接見たわけではないが、戸塚名物と云えば長いこと大金玉に決まっていた。
江戸時代に書かれた『続飛鳥川』なども次のように書いて居る。
《戸塚のきん玉、乞食也。きん玉の大成事、(おおきなること)四斗樽より大なり。往来の人あまたたへず施す》
四斗樽は四十升、約七十二リットルのことである。
わかりやすく云えば、石油缶が一斗入りだから、あれを四個ぶら下げていると思えばいい。
「そんなばかな」と思う人は、葛飾北斎の『北斎漫画』を見てご覧。二人がかりで金玉を運んでいる絵があるから、ウソじゃない事がすぐにわかる。それどころか、当時は伊豆に対抗玉(五斗樽大)も居た。だから、
《戸塚の玉も大きけれど伊豆の玉には中々及びもなきことと思はる》(『想山著聞奇集』)等と書かれてある。
この話には続きがあるし興味を持つ人も多いだろう。とりわけ戸塚の大玉にはエピソードも豊富だし、以前本紙でも紹介したから、興味があれば確認して貰って構わない。が今はこの辺でやめて、お札へ戻る。
毎年七月十四日が祭礼当日である。今年は日曜日と重なるからさぞ賑やかかと思いきや、朝から雨が降る肌寒い天気であった。雨天決行と云う事は電話で確かめていたから、早暁から電車に乗ってでかけた。
場所は已然も行った事があるから分かっているつもりであったが、思いの外遠いかった。実距離よりも歩く事に不自由を感じるようになったから余計そう思うのだが、大変難儀をした。
その変わり戸塚宿本陣跡とそこにある社を発見できたのは収穫である。明治天王なんとやらの石碑まで立っていた。
ここにバス停があったし、次のバス停が八坂神社の階段下になっていた。だから帰りはバスに乗ったが、行きしなは何処行きに乗ったらいいか分からない。夕方出直したときは、人に尋ねて往復バスに乗ったが、それは後の話。
難行の末漸く辿り着いた神社の階段下には、参拝者が列をなしていた。お札まきは夕方五時半からと云う事は、昨夜の内に電話で確認しているが、まだ午前である。短気は悪いし雨も降り出した。当てが外れたのは自分の不注意だからしょうがない。最後尾に就いた。
最初は二列だったが、途中から三列になって割と早う進んだ。ペコペコパンパンペコ(二礼二拍手一礼)して拝んだら、係の人がお札をくれた。それが上の札である。八坂神社とあるから明治以降の形式であるが、ありがたく頂戴した。正一位とあるのは、正徳六年の神号を受けての事だろう。
お札を貰った後ちょいと脇を見ると「お札セット」を売っていた。三枚、五枚、七枚と値段によって異なるのは面白い。販売している人にお札まきの由来・わいわい天王との関係を尋ねたら、同じであると言われた。 それで安心した。ついでに女装の訳も聞いたら、変わった事をしたほうが目立っていいでしょうと言われた。まさにその通り、中々明快である。聞けば内田兵庫か誰かの二十代目子孫だと云う事である。
もう少し聞きたかったが、外にもお客があったから今回は諦めた。夕方まで二時間少々ある。バスに乗ったら二駅ほどだからすぐに着いた。まるで見覚えがないのは、駅の裏側だからである。つまり乗り場は表だが降り場は裏になっているようである。これだと人の流れが交差せんから中々合理的である。
昔の面影は少しもない大きな駅である。バス乗り場のある表口まではだいぶあった。駅前に名前を知っている大衆飯屋があった。大分草臥れたのと時間つぶしも兼ねて一杯飲みながら休む事にした。
お札撒きは五時二十分からと云う話だったので三十分前のバスに乗った。当たり前だが、先ほどより人が増えている。参拝の列には並ばず階段を登ったら、境内も一杯である。雨は止んだが足下が悪い非常に。お札も地べたに落ちたらドロドロになると思っていたら、本日は手渡しするという話であった。それはありがたいと勇んでいたら、前置きばかりが長く、十枚足らずの札を前にいた何人かに渡しただけでお終いである。
「何じゃコリャ」
そう云いたいほどあっけなかった。わざわざ東京から金と時間をかけてきたのに、なんとも中途半端である。情けない思いで電車に乗った。
佃 踊 り
去年から分裂開催する事になった佃田踊りだが、そのことを知らないまま去年は見に行った。そこで気付いたのは、何時も開始前にたかれる山盛りの線香と、無縁物の掛け軸をかけた精霊棚がない事である。代わりに立派な仏壇が誂えてあった。それで何故換えたのか係の人に聞いてみたが、はっきりした返事がなかった。
その後理由を確かめる必必要が出来たので、中央区の観光協会に聞いてみた。
その結果、理由は教えてくれなかったが、「今年(去年の事)から別々に開催する事となった旨を伝えられた。結果、これ迄の日程(七月十三~十五日)は、新興勢力が、文化財は一ヶ月遅れの八月十三~十五日に行う事に決まった」ということであった。
「それ以上の事は分からない」の一点張りであった。それで今年の八月十三日を待って確認に云ったのである。
ポスターによると、踊りは夕方6時半から9時までとある。六時過ぎ会場に到着したがえらい賎かである。夜具rの廻りに三つ四つの提灯があるばかりで、マイクもなければ人影もない。只かセットとおぼしきものから盆踊り唄が流れているだけである。
精霊棚は造られてあったが、山盛りの線香を焚く火鉢は、空のまま脇へ置かれた状態である。その隣へ本部席のテントが組み立てられてあり、中には役員とおぼしき爺さんが四,五人だべっていた。開始時間が近づいても誰一人と立とうとせず、だべり続けているだけである。その間に待ちきれなくなった子供たちが何度も覗きに来るが、知らぬ顔のままだべりをやめる様子はない。それで一番手前の一匹に話しかけてみた。「もう時間は過ぎたし、子供たちがちょいちょい除いていますよ」と。それでも誰一人腰を上げようとはしなかった。今度は一番若そうなおばちゃんに「まだはじまらんのですか。子供たちが待っていますよ」といってみたら、「初日は遅く始まるからいいの」というばかり。
ようするに、身体が動かなくなった分口が五月蠅うなった爺と、無形文化財という名前だけが欲しい婆連中に業を煮やした若者が反旗を翻したのが、分裂原因だろう。そう思えるほど面白くないつまらん踊りであった。
こんなんなら、全面的に新しい方へ渡した方がいい。去年の踊りは、提灯も多かったし、櫓から流れる放送ももっと元気があった。(佃田踊りの性格上、炭坑節的な賑やかさはないが)最初から元気且つやる気十分であった。
役員と思える婆さんにそれとなく聞いてみたら、「向こうは新しいけど 内は伝統文化ですから」と。「伝統ちゅうても 歌舞伎でさえ新しい事に挑戦しているでしょう若者の意見を入れる事も大事じゃないですか」といったら、 ぷいと向こうへ行った。
大道芸の会会員募集
「南京玉すだれ」や「がまの膏売り」など、古来から伝わる庶民の伝統文化「大道芸」を共に伝承しませんか。練習日は左記の通りです。
●第三二九回目 九月十一日(水(すい))
●第三三〇回目 九月十八日(水(すい))
●第三三一回目 十月九日(水(すい))
時間・午後七時ー九時
場所・烏山区民センター 大広間(二階)
また、歴史や時代背景を学び、或いは技術を向上させたい人(オンリーワン、ナンバーワンを目指す人)のために、一名から学習会や特別練習も行っています。
●日時 ・場所(随時)
随時HP掲示板(ほーむぺーじけいじばん)等で通知
編集雑記
村興し町興しに限らず、成功したければ、若者、馬鹿者、他所者にまかせろと云われる。その通りだが、我が大道芸を伝承出来るか否かは悩ましい。習得するまでには最低十年かかる。小生が棺桶に蓋をされるまで、そんなにあるか。時間との勝負である。一人でも二人でもいい。日本庶民の伝統文化 大道芸を伝承してくれる人を求む。