大道芸通信 第325号

画像画像歌念仏から歌比丘尼 けころ

 念仏は元来、,節を付けて謡うようなものではないが、それだと庶民へは伝わりにくい。歌のように節をつけたら、少しは耳に残るかも知れない。念仏を伝えるための方便ならいいだろう、と行われるようになったのが歌念仏である。
 処が後にはそんなことは忘れられ、好き勝手な歌を作り鉦に合わせて囃したりするようになった。今では念仏の面影など何処にもなく、浄瑠璃や説経(節)に欠かすことが出来ないものとなった。『人倫訓蒙図彙』は次のように言う。
《夫(それ)念仏といふは万徳円満の仏号也。然るを、それに節をつけうたふべきやうはなけれども、末世愚鈍の者をみちびき、せめて耳になりとふれさすべきとの権者(ごんじや)の方便ならん。それを猶誤って色々の唱歌を作り、 是を鉦に合せて囃し、浄瑠璃、説経乗せずといふことなし。末世委法滅の表示なり。かなしむべし。なげくべし》(『人倫訓蒙図彙』)
(意訳)万徳円満の仏号である念仏は元来、節を付けて謡うようなものではない。しかし、今は末法の世だから、愚かな人々はそれだと反応しない。節をつけて謡えば、少しは耳に残るかも知れない。念仏を伝えるための方便ならいいだろう、と行われるようになったのが歌念仏である。
処が後にはそんなことは 忘れられ、好き勝手な歌を作り鉦に合わせて囃したりするようになった。今では歌念仏に念仏の面影はなく,浄瑠璃や説経に欠かすことが出来ないものとなった。こんな事では世も末じゃ。悲しいかな、嘆かわしいかな。

 念仏を歌にした瞬間から芸能化したのである。そうなれば後は速い。浄瑠璃始め様々な芸能の元祖となり影響した。『盲文画話』も「比丘尼」について次のように書いている。
《往古(むかし)より衣(ころも)着ざる比丘尼の地獄極楽の巻を持ち歩行(あるき)、老婆婦女等にその巻の絵解きして、極楽地獄の有様を物語りて渡世せり。是を絵解き比丘尼と唱えしが、後は熊野の五王を持ち来たり、入用の者へ売る。是を熊野比丘尼と云ふ。此の比丘尼売色と変して、専ら身を売る事と成(なる)。其の頃唄比丘尼とて異風なる頭巾を冠り、紅(白粉)をほどこし、幅広の帯胸高に結び(下駄)をはき、美敷(うつくしく)甲掛し(みがき )て、左に五王入りし箱を抱へ、右(には)びんざさらと云ふ物を指にはめ、是を鳴らして唄を謳(ひ)町々の門へ立ち、手の内を貰ふ。物を乞ふにチトクワンと言。是を修行成といへども、其の比丘尼直ぐに売る者にて、浮かれ男共是を買ふて楽しむ。茶屋或ひは番屋抔にて出合しが、次第に売色して甚だ以て流行せり。既に宝暦末年、葺屋町芝居市村座にて、常磐津文字太夫、浄瑠璃富士の菅笠とやらむ文(豊)後節にて、若太夫市村亀蔵(割註略)並びに中村富十郎(割註略)が勤めし所作事に、富十郎が出立則ち其の頃の唄比丘尼の風俗を、其の儘に撮したる成(割註略)愈々其の頃より日増しに流行して、浅草門跡前、本所御竹蔵後、安宅、大橋向抔に比丘尼屋出来、親方をオリャウと号して、専ら色を商ふ。其の内浅草門前前は別して大造りと成。盛んに繁盛せしは、宝暦年間しきりに栄へ、比丘尼の全体言量りなし。比丘尼屋も立派なる家にて、五人十人も抱へ置き、見世は品川抔の売女屋に似て、奥を浅く仕切り、其の前に銘々莨盆を控へて、並び居る揚屋も出来て、客を迎ひに比丘尼道中する体、吉原仲ノ町の如し。 其の姿紅粉あくまで(粧)、黒繻子にてしたる異形の頭巾に(帽子)針とて、銀に色々の簪をさし、左右のもみあげの(毛を)残し垂れ、縫の襠、(かいどり)同じく下着、幅広帯前にて胸高に結び、塗下駄を履き、褄を取りて目八分に向かふを見(張振出)したる容体、昼三の太夫におさおさおとらず、十二歳より七八歳までの(小)比丘尼に角頭巾着せ、弐人(ふたり)対の衣装にて左右に連れ、後より十七八より廿一二頃の比丘尼、襠なし、同じく下駄にて五王箱を抱え行く。其の跡より五六十位歳の老比丘尼付き添ひ、きほいたる男弐人も三人も付いていかめしく、郡集を分け、道中の有様目を驚かせり。瀬川妙玄、菊次郎何々、市松何々抔、其の頃の芝居若女形に表じて、仇名せる全盛の比丘尼多し。又端女郎といふべき比丘尼数多也。安宅、大橋辺の比丘尼は、左ほど大造にてはなけれども、是も昼夜繁冒せし成。揚げ大はいかほどかや。幼童の折なれば聞ても忘れたり。如斯くにて天明頃までも繁冒したりしが、次第にすたれて、門前前は早く無くなり本所のみ栄居しが、程なく衰微して跡なく、大橋向こふのみ安永頃までかすかに残り有しが、いつしか絶え果てにき。唄比丘尼も同じ頃止みたり。只十二三歳より下の小小比丘尼、曲げ物の小桶に勧進柄杓を持ち、唄を唄ひ手の内を貰ふ者、朝々は町々をおびただしく(歩)行き、そぞろなる小唄を唄ひて、ヲヤンナと言ふて門へ立ちしも、安永末には、小比丘尼まで跡無く成て、今は衣着ざる比丘尼と言ふもの絶へてなし。大勢の比丘尼何と成(けむ)還俗せし歟、又直に売女に成しか。其の頃は坊主返りの女、さぞかし多く有りつらむが知らず。門跡前、本所、大橋、都(すべ)て今は跡形もなし。少しの間に替はること妙なるものなり》      (『盲文画話』国立国会図書館蔵)

 比丘尼から熊野比丘尼へ
更には唄比丘尼へと変ずる様がよくわかる。 吉原と対抗するようになれば相手に分があるのは当たり前、みるみる凋落してしまった。
 それは当然だが、埋まるつもりの紙面が余った。扨てどうしよう。
 仕方がないので続きを書くことにする。比丘尼道中が凋落しても 必ず次が顕れる。かくして「けころ」の時代へと入る。「けころ」が「けころばし」であることは説明がなくてもわかる。これも『盲文画話』に素晴らしい挿絵があるから、何とか紹介したい。無事辿り着けることを祈りつつ、紹介しよう。

けころ
《安永天明の頃までは、ケコロと唱へし売女、上野広小路、同山下、広徳寺前、浅草三島町前抔に有りて流行せり。奇麗なる九尺間口の店に、一人二人随分美敷茶屋女の風体ながら、店に茶釜様の道具もなし。多くは店先にて髪結い化粧などする也。どれどれも美顔を撰て出すにや、見苦敷女はなし。尤も何も其の時々の当世姿也。一切弐百文づつとかや。怪敷硯蓋に避け一銚子を出す。銚子替れば直しの旨也。泊まりは取らずと見へたり。暫時の間に早契り。蹴転しの略語にや可笑。是もいつしか止みて今はふつに見えず。
友人の語りしは、上野辺遊行して、山下なる料理茶屋へ立ち寄りて昼食し、尤も酒(肴)抔申付け(て余程)手間取り、休足したる其の茶屋の真向ふ(にケコロ)屋ありた、十六七歳の美敷女壱人居て(客を)迎ひては送り出る事、度々故(連れの)友と興(に乗じ)一人一人とかぞへ見れば、少しの間に六人送り出、七人目の客を迎へたり。驚き入りて茶屋の少女に問へば、
あの子は大流行にて、一日に十五六人廿人、物日には廿五六人も売りますると応ふ。是を聞て連れも我も一驚を喰ひあきれ果てたり。是も大笑ひの咄しなり。此のケコロ、人覗けば艶めきたる声して、ヲヨンナといひしと覚ゆ》   (『盲文画話』国立国会図書館蔵)
二八そば 十六文。夜鷹 二十四文。けころ 二百文。

大道芸の会会員募集 
「南京玉すだれ」や「がまの膏売り」など、古来から伝わる庶民の伝統文化「大道芸」を一緒に伝承ませんか。練習日は左記の通りです。
●第三二二回目 三月十三日(水(すい))

●第三二三回目 四月十日(水(すい))予定

時間・午後七時ー九時
場所・烏山区民センター 大広間(二階)

 また、歴史や時代背景を学び、或いは技術を向上させたい人(オンリー・ワンやナンバー・ワンを目指す人)のために、一名から学習会や特別練習も行っています。
●日時 ・場所(随時)

 随時HP掲示板(ほーむぺーじけいじばん)等で通知

編集雑記
年々歳々大道芸を知る人が減る。そのことを身を以て感じるようになったが、対応できないでいる。
 何とか人前で出来るようになるまで三年。一人前になるまでなら最低十年かかる。洋物ならそこまではかからない上、動きが派手だから三歳の子供でもわかる。
全ての芸能の原点が大道芸である。このまま絶滅させるわけにはいかない。原点を踏まえつつ、現代に適応できる芸への変化が必要。そんな人材を求む!!

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