大道芸通信 第322号


秋田蘭画は安永三年(1774)以降に秋田藩内の藩士等を中心に描かれた洋風絵画のことである。洋風絵画ではあるが、油絵具ではなく国産絵具で代用した。蘭画といわれる所以である。恰もその当時は「のぞき(=後の覗き絡繰り)」の第二期、「景色(名所)を見せる覗き」全盛時代に当たる。
「のぞき」は竹田絡繰(からくり)の影響を受けて生まれたことはすでに何度も述べた。竹田絡繰がゼンマイ仕掛けで人形を動かしたのに対し、のぞき(覗き)は人力で動かしていたため、絡繰(からくり)という言葉は使わず、単に「のぞき」と云っていた。
これを第一期とすれば、第二期は、景色を見せるのぞきである。その頃和(お)蘭(らん)陀(だ)から風景画とそれを見るための覗き
眼鏡が入ってきたことが影響した。左図のように下に置いた絵を鏡に映しレンズを通して見るものである。これを眼鏡絵と呼び、 早速これに飛びついたのが、「のぞき屋」である。レンズ効果があるように極端な透視画法(遠近法)で描かれてあった。これをまねて浮世絵師たちが描いたのが「浮絵(うきえ)」である。最初期は享保年間(1716~35)頃と言われ、鳥居清忠(生没年不詳)や歌川豊春(1735~1814)等が著名である。
しかし遠近法は真似られても、写真のように描く陰影法等の技法は真似出来なかった。初めてこの技術を習得したのは平賀源内である。
西洋絵画も元来、蘭学の一分野として紹介された。そのため蘭学者である平賀源内は早くから接していた。当初は書物を筆写する際に、挿絵も一緒に模写したことから徐々に腕を上げたようである。
安永二年(1773)七月、源内は財政再建のため鉱山開発の指導をするよう、久保田藩(秋田藩)藩主佐竹義敦(曙山)に招聘され、鉱山開発の指導を行った(十月まで滞在)。その時にはすでに蘭画を習得していた。
同じ頃、久保田藩に小田野直武(1749~80)と云う藩士がいた。正確には佐竹家の分家である角館を治める佐竹北家・佐竹義躬の家臣である。幼少期より絵を好み狩野派を学んだとされる。
そんな小田野は、源内が秋田を去った直後の安永二年十二月、「銅山方産物吟味役」を拝命して江戸へ行く。 当初は蘭学修行のためと思われるが、案外ウマがあったようだ。いくばくもしないうちに、源内の所へ屡々出入りするようになったようである。蘭画を源内に師事するようになった経緯については、様々な伝説があるが、殆ど根拠がない。今は不明にしておき将来に託す。
小田野直武は、江戸へ来た翌年(安永三年=1774)に刊行された『解体新書』の指図を描いている。『解体新書』の翻訳が始まったのは、明和八年(1771)頃とされるが、江戸にいないから当初から関わっているはずはない。源内の推薦によるという説を採れば、江戸へ来た直後に源内が推薦するほどの技量があったことになる。それは構わないのだが、弟子になった許りの人をすぐに推薦した源内も大物だが、はっきりするまでは、これも未詳としておく。
何れにしろ、その頃から源内の指導の下で蘭画を始め、安永八年(1779)五月、源内が死去するまで続いた。江戸にいる間は、足繁く源内の元へ通ったが、源内が死去すると当然終わる。しかし源内の後を追うように翌年には直武も死去。僅か三十一歳であった。
直武の死によって秋田蘭画は急速に衰える。その後は直武に師事した司馬江漢が蘭画制作を続けるが、天明三年(1783)、江漢は初めて洋風銅版画(エツチング)制作に成功する。以来彼は暫く眼鏡絵の制作販売に務める。
司馬江漢は元は浮世絵師で、当初は二代目鈴木春信を名乗っていた。その後小田野直武から蘭画を習うことになり、浮世絵を捨て蘭画に転向する。司馬江漢を名乗るようになったのはその頃からである。
天明八年(1788)春、『ジャイヨ世界図』(フランス、1720刊)を模写したことを切っ掛けに長崎への遊学に出かける。関東から西行った事のなかった江漢だが、旅の途中で風景を写生している。長崎には一ヶ月余滞在した。その間に、輸入油絵と出会い、次の課題を油絵の制作に決めた。絹の布をカンバスとし、絵具は傘の防水に使用していた荏(え)胡(ご)麻(ま)油に顔料を混ぜ合わせて作った。この方法は元来、漆工芸品の彩色法として発達したものであるが、それを油絵に転用したのである。
肉筆浮世絵は縦長の掛け軸仕立てが多いが、洋風画は縦長から横長へと変化している。 時期を同じうして、世間では「のぞき」が流行っていた。
眼鏡絵は個人又は数人で楽しむものでしかないが、「のぞき」は一度に多くの人に見せることが出来る。大型化すれば、更に沢山の人が見ることが可能だ。半面、のぞき屋台は日常的に運搬組み立ての用がある。自ずと限界があり、当時は手押し車、近年はリヤカーに乗せて運んでいた。『絵本家賀御伽』(宝暦元年=1751)が載せる「名所を見せるのぞき=景色を見せるのぞき」も、その大きさである。同書は「景色(けいしき)をたった一目に見たるとは のぞきの中の山河やいふ」と和歌的に概要説明している。また太田蜀山人の七言絶句『機(のぞ)関(きの)帰帆』(1784)も景色を見せるのぞきを絶句にしたものである。
後には「からくり」と読ませる事の多い「機関」をここでは「のぞき」と読ませている。つまりこの頃までは未だ「のぞきからくり」という言葉がなかったことが知れるのである。
但し、絵看板には「大からくり」と書いてある。「絡繰り絵(=浮絵)を見せる覗き」という意味で使われたようであるが、屋台自体は「覗き」と呼ばれていた。両者の合成語である「のぞきからくり」という言葉の初めを探すと、『武江年表』の享和二年(1802)項に「八百屋お七の小唄はやりし故也 ○云ふ。小唄にあらず。田舎風なる覗きからくりのいひたてを、手を打ちつつ云々」とある。
極めて侮辱的な書き方であるが、「覗きからくり」という言葉の言い初めが此の頃のようである。同時に「景色を見せるのぞき」から「歌物語」へ移行した時期を示す。
この形式は昭和の御代まで続くのである。第三期絵物語風覗き絡繰りの時代に大流行したのが「八百屋お七の歌」である。『守貞謾稿』も「覗機関」と書いて「のぞきからくり」と振り仮名をつけている。この言い方が最後まで続くが、それについては又後日。
此処で秋田蘭画と覗き絡繰りの接点を考えてみる。
はじめに「のぞき」及び「のぞきからくり」「秋田蘭画」を記録に残るものを中心に、行われていた実年代を推察すると左記の通りである。
なお、眼鏡絵は個人や家族で楽しむものであったから、景色系覗きに影響を与えた後も、下記歌麿も描いているように並行して続いている。
①糸引き人形系のぞき
貞享二年(1685)~ 宝暦年間(1751~64)頃
②景色(含眼鏡絵)系のぞき
延享年間(1744~48)~天保二年(1831)頃
●鈴木春信眼鏡絵 高野の玉川 明和四年(1767)頃
●秋田蘭画行われる 安永四年(1775)~天明四年(1784)頃
●安永八年(1779)、源内死去
●同九年(1780)、小田野直武死去
●天明三年(1783)、司馬江漢洋風銅版画(エツチング)制作に成功
③絵物語系のぞきからくり
享和二年(1802)頃~昭和四十五年(1970)頃
時系列で並べると、「秋田蘭画」が描かれたのは②の内である。「のぞき」や「秋田蘭画」に影響を与えた「眼鏡絵」は勿論、風景画的な絵が多いのも頷ける。小田野直武等や司馬江漢が活動した時代が含まれる。
●『婦人相学拾躰』(個人用覗き・歌麿) ……………… 2頁掲載図
●『風流子宝合』(家族遊び用「大からくり」・歌麿)…… 2頁掲載図
右作品が描かれたのは、「のぞき」が寛政年間(1789~1801)、「大からくり」が享和二年(1802)頃とされる。
景色を見せる覗きの口上の例として、『両国栞』(1771)や『御存知商売物』(1782)が載せるものを紹介する。
初めに『両国栞』から〔原文旧仮名遣い、平仮名多〕
もぎり「一見一見 始まりじゃ始まりじゃ からくりは眼鏡なし」
歌左衛門「イヤたどり行く雨のさし笠てもたゆく落ち葉の露(つゆ)に袖絞るとある。館にたどり着き賎の女立出 それよりも良きにいたわりノヲ、申しつついざ此方へと奥座敷〔此処は奥座敷さはぎの態でござります〕
今宵 の雨の寂しさに それ一ツ曲と染一が弾く三味線の流行り歌。君は妻ゅへ君は三味線 糸より窶れておせせなり 最早お構いやるなと我は一間にてんご空」
「是より大山の境内でござりまする。(中略)」
「次にお目にかけまするが 当初両国の景色でござります。正面な則ち両国橋 橋の長さは凡そ九十六間 向こうに見えまするは回向院 橋の此方は広小路 見世物茶店の態。右は本所一つ目元柳橋大橋三つ叉永代を限りて見えます。渡った左は北本所 駒止橋椎の木三囲り牛の御前 角田川の土手を見晴らし空には都鳥が飛び交う有様 手前の方は柳橋御蔵前 お厩 河岸の渡し 少し下がりまして川中へ差し出ましたは首尾の松 それより駒形堂 竹町花川戸浅草観世音には五重塔 待乳山 今戸橋には山谷 舟が乗り込み待つ先 角田川の渡しまで微かに見え渡ります。
扨是よりは夜分の景色夕涼
の態にござりまする。よしの ゑびす丸 其の他あまたの屋形舟には 太鼓三味線声色舟 遊山亭茶屋茶屋の行灯提灯 一度に火を点じまして空には月星が現れます。玉屋鍵屋は左右に立ち別れまして流星玉火星下り等の花火を花火を揚げまする細工と手際にお目を留められご覧下さりませう」
続いて『御存知商売物』
「京四条川原夕涼みの態。これも夜分の景と変わり づらりっと火が灯(とぼ)ります。首尾良く終わりますれば お名残惜しゅうはござりますが 様へお暇乞い。何と良い細工がござりましょう」
景色を見せる覗きの特徴は、夜景を見せる事である。ここでは行灯や提灯に火を点しているが、障子の桟の隙間から明かりがチラチラする様子もあったりと変化に富んでいたようである。尾張藩士高力猿猴庵も「大須門前へ今様ののぞきはじめてきたり。小屋かけの見世物にせしば、貴賤目を輝かし、夜のていの一時に火を点すなどするこそ実不思議。若し魔法か飯縄なんどではないかと」(『名陽旧覧図志』)と書き残しているほどである。
大道芸の会会員募集
「南京玉すだれ」や「がまの膏売り」など、古来から伝わる日本庶民の伝統文化「大道芸」を一緒に伝承しませんか。練習日は左記の通りです。
●第三一九回目 十二月十二日(水(すい))
●第三二〇回目 一月九日(水(すい))予定
時間・午後七時ー九時
場所・烏山区民センター 大広間(二階)
また、歴史や時代背景を学び、或いは技術を向上(オンリー・ワン、ナンバー・ワンを目指す)させたい人のために、学習会や伝承会も行っています。一名よりマンツーマンで指導します。
●日時 ・場所(随時)
随時HP掲示板(ほーむぺーじけいじばん)等で通知
編集雑記
今回秋田蘭画を取り上げたのは、『秋田蘭画の近代』と云う本を見たからである。導入部は面白いが途中から変身する。仮説を、思い入れと願望で延々組み上げ「風景画は美人画である」と結論を出す。
今から五十年ほど前、これと似た論理立てで、仮説を定説に引き上げた本がある。今も信奉者が多い「卑弥呼の鏡=三角縁神獣鏡舶載鏡」説を書いた本である。
秋田蘭画に風景画が多いのは、発祥が浮絵だからで、それ以上でも以下でもない。