大道芸通信 第317号

江戸の物売りと大道芸

「物売りは大道芸か否か」と聞かれたら 私は「大道芸である」と答えている。人それぞれ或いは商品によって振り声(売り声)や表現に工夫を凝らしているからである。今に伝わる振り声も 感心するほど 商品の特性を捉えた発声や表現をしている。玉子売りは「ひと声も三声も云わぬ玉子売り」というように「たまごたまご」のふた声だけである。しかしそのふた声に玉子の全てを込めた振り声である。

これからの季節は心太が(ところてん )おいしくなるが こちらは「ひと声半の心太売り」といわれたように「ところてんてんや」とか「てんやところてん」と振り声を上げていた。
現在 甘酒は冬の飲み物と思われているが 元々夏の飲み物であった。『守貞謾稿』に「夏月専ら売り巡る者は 甘酒売(うり)」とある。その上で左記のように書く。
醴(あまざけ)売也。京坂は専ら(もつぱら)夏夜のみ之を売る。専ら六文を一碗の価とす。江戸は四時(=春夏秋冬)とも之を売る。一碗価八文とす。其の扮相(ふんそう)似たり。唯江戸は真(しん)鍮(ちゆう)釜を用ひ或は鉄釜をも用ふ。鉄釜の者は京坂と同じく筥(はこ)中にあり。京坂必ず銕(てつ)釜を用ゆ。故に釜皆筥中にあり。 京坂では夏のみ振り売りしていた甘酒を、江戸では年中売る(ようになった)。売り歩く姿は似ているが、江戸は真鍮製の釜や鉄の釜を使ったりとまちまちだが、鉄製の釜を使う者は、京坂同様箱の中へ釜を入れている。左上の挿絵を見ればすぐわかるように、鉄の釜は箱の中にあるが、真鍮の釜は箱の上に載せてある。
 外にも今はない様々な生業があったが、その中から、これまで紹介したことのない生業を中心に紹介する。

○ 荒神松売り
 三(さん)宝(ぽう)荒(こう)神(じん)(竃の(かまど )神)へ供(そな)える松。毎晦((みそか)=毎月末)頃売りに来る荒神松を買い求め、花瓶に挿して竃の上に供える。松の大きさは京坂は二尺以上六尺程もあるものに榊を(さかき )副(そ)える。二尺の松に一尺の榊を副えて八銭(文)位、五六尺の松は百文以上。
 江戸は二尺前後の松だけで榊は附けない。松一枝四文。なお江戸では鶏を画いた絵馬を副える。鶏の絵馬は油虫を除(はら)うまじないと云われていたからである。

○紙屑買い
 反(ほ)古(ご)や屑紙を買い序(つい)でにボロも古衣類、古銅鉄、古器物等も買っていた。京坂では「てんかみくず、てんてん」の呼び声。てんてんは古手(古着)の略。紙屑や古銅鉄は秤に掛けて買っていた。江戸の売り声は「くずーい、くずやおはらい」である。(紙屑買い)『守貞謾稿』

○古傘買い
買い取った古傘は、骨と紙に分けて再利用した。京坂は土瓶や行平鍋等と交換、少ない方が銭を添えて同価値となるように調整した。呼び声は「どびん、ゆきひら、きびしょ、やきなべ、上団扇や上人形と換えますでござい」。江戸は全て現金買い。状態によって、四文、八文、十二文。呼び声は「ふるぼねはございござい」。
古傘買い(『守貞謾稿』)

○針売り
 主として男子が売っていたが時に媼も(おうな )いた。小間物屋も商品の一つにしていた。京都の御(み)簾(す)屋(や)製のものが最高級とされていたため、江戸でも「みすや針はよろし」と振り声を上げていた。

○灰買い
 京坂では竃下や炉中の余灰に米(こめ)糠(ぬか)と綿核(わただね)も買っていた。従って「ぬか、たね、はいはございござい」と呼んでいた。江戸では灰だけを買っていた。市民が自家で綿繰りしなかったから。米糠は(米)舂夫(つきふ)から買っていた。

○赤蛙売り
 赤蛙や柳虫を小箱に入れ、風呂敷包みにして背負ってきた。京坂の赤蛙は乾燥させたものだが、柳虫は生きたまま売っていた。江戸では赤蛙、柳虫に限らず蝮ま(まむし )で生きたまま売っていた。買う人がいたら、目の前で裂き殺して売っていた。京坂では蝮は売らなかった。薬(やく)餌(じ)に食した。

○願人坊主
 元々鞍馬山の坊主が、所願のことがあって江戸へ来たが何も叶わないうちに資金が尽いた。それで生活のため、習い覚えたお経等をしながら市中を巡り銭や米の喜捨を受けたのが始まりという。但し『嬉遊笑覧』は「そんなの嘘だ」と一蹴し乞食へ分類している。橋本町(秋葉原近辺) を居住地として、次々と色々な手を考えだしていた。思いつくだけでも、すたすた坊主や金比羅行人、半田稲荷、考え物、御日和ご祈願等がある。すたすた坊主、金比羅行人、半田稲荷は以前紹介したから、取り敢えず「考え物」と「御日和御祈願(おひよりごきがん)」を紹介する。

○考え物幅一寸、長さ三四寸の紙に「上に坊主、下に一の字」を書き、各家に投げ込む。しばらく経ってから再び訪ねて銭を乞う。その時左記のように云う。
「先刻さし上げました考え物。一字の考えは、真棒すれば十字になるという意味ですよ」。真棒は辛抱、十字は住寺と音が似ていることからの言葉遊びみたいなものである。ほかにも準じたことばを書いて、同じ事を繰り返した。

○御日和御祈願
雨降りの日、四五人の坊主が連れ立って歩く。その中の一人は所々に結び紙を挟んだ大破れ傘をさしている。残りの坊主は、各戸を廻って銭を乞う。人が出てくると、傘の中から結び紙の一つを指さし「御天気快晴、御日和御祈祷」と声を上げる。


  わいわい天王・牛頭天王③

五重塔が二十五円で民間に払い下げられたのもこのときである(明治四年)。購入者は金具を取るために焼却するつもりあったが、類焼を恐れた近隣の反対にあい、かろうじて残った。
 石清水八幡宮は、八幡大菩薩(=仏)を八幡大神(=神)に改め、今後は神社として存続することを許された。それに伴い神前に供える供物も精進から魚介に改めた。社僧は復飾して神職となった。
 ほかでも様々なトラブルはあったが、多くの寺社は神仏分離をすることによって、存続を赦された。ところが一人、牛頭天王だけは存続どころか存在そのものを否定されることとなった。維新政府が正式には「天子」や「帝」( みかど )、私的には「御所さん(ごつさん)」「玉」(ぎよく)と呼んでいた人を、「天皇」と呼ばせることに決めたため、牛頭天王は天皇の名を僭称(せんしよう)する不敬の輩へと転落させられたからである。
 これに伴い、牛頭天王を本尊とする祇園社や天王社は、全て「スサノオ」を神体とする神社へと改称させられた。京都の「祇園感神院」(「感神院祇園社」)も、寺院はすべて取り壊されて円山公園にされ、祇園社部分だけを「八坂神社」とと改称した。
 京都の祇園社とは別の伝承、九州の対馬から直接移って来たとされる愛知の「津島牛頭天王社」(「津島天王社」)も、「津島神社」へ改称した。両社とも主神を牛頭天王からスサノオへ変更させられたことは云うまでもない。
 従って現在では、両社とも牛頭天王をしのばせるものは何もない。それでも、末社や摂社の中に残影を見出せることはある。八坂神社(祇園社)の末社のうちでも、蘇民将来を祀る「厄神社」はすぐにそれとわかる。しかし、スサノオノミコトの荒御魂(あらみたま)を祀る「悪王子社」はなかなか気づかない。悪とは強力の意味であり、元は東洞院通りの悪王子町にあったとされるから、牛頭天王自体であった可能性は高い。
 津島神社(津島天王社)の参道は「天王通」と云う。元々の名前「牛頭天王社」に由来する。ほかにもスサノオノミコトの荒御魂を祀る「荒御魂社」がある。元は八岐大蛇(やまたのおろち)の霊を祀る「蛇毒神社」と称していたというから、牛頭天王の八人の子供(八王子)のうち、「蛇毒気神」を祀っていたものと思える。蛇毒の名称から八岐大蛇に付会した様子が類推できる。
「和御魂(にぎみたま)社」は、荒御魂に対する和御魂を祀る社だが、元は「蘇民(将来)社」であった。またスサノオの幸御魂(さきみたま)を祀るとされる「居森社」は、牛頭天王が最初に足跡を記した場所であるとの伝承を持つ。
 牛頭天王を抹消せんがために、スサノオ神話に吸収消化された後でもこの程度の漏れは見つかる。現在も天理市にある「天皇神社」も漏れ残ったうちの一つである。一見、万世一系の天皇を祀っているような名称だが、元来牛頭天王を祭神としていた。 天理市教育委員会は左記のように説明する。(旧村社)

天皇神社(本殿重要文化財) 天理市教育委員会

旧備前庄の鎮守で、天皇とは牛頭天王の意味で素盞鳴尊を祀っている。文永九年(一二七二)の創祀と伝えられ、今の本殿は周防国上野寺の住侶頼秀が諸国巡歴中、本社に参拝し、社殿の荒廃を悲しみ、応永三年(一三九六)六月自ら願主となって、藤井一家の大工を催促して造立したもので、その棟札が残されている。(以下略)

「天皇とは牛頭天王の意味で素戔嗚尊を祀る」とは、正直だが、一般には理解しにくい。かといって、「牛頭天王を抹殺するために主神を変えた」とも書きにくかったのだろう。読み流されることが前提の説明である。
 だから詳細に読むと疑問が残る。そうではあるが、牛頭天王の名を残す天皇社はましな方である。牛頭天皇をスサノオに変えたことには一切触れず、元からスサノオであったかのような説明をしているものが殆どである。また参拝する人も牛頭天王とスサノオの違いを詮索する人など滅多にいない。
 八百万もの神様がいるこの国では、牛頭天王の一人や二人どうでもいいというのが本音であり、多くは今書かれてある祭神を信じるだけである。祇園祭や天王祭、或いは天王通り等は、○○神社の祭りなり参道なりをそう呼ぶんだろう程度の認識しかない。
 従って現在の牛頭天王は、『八坂神社』の云うように、
「祇園の神は日本の神話に語られているスサノヲのミコトである」状態となっている。
 そうしたことへのご褒美が「近代社格制度」に基づく官幣大社(八坂神社)であり、
国幣小社(津島神社)であった。一九四六年(昭和二十一)二月、同制度が廃止された
後は、両社とも一九四八年(昭和二十三)に新定された別表神社に列せられている。 (了)

大道芸の会会員募集 
「南京玉すだれ」や「がまの膏売り」など、日本庶民の伝統文化「大道芸」を一緒に覚えませんか。練習日は左記の通りです。

●第三一四回目 七月十一日(水(すい))

●第三一五回目 八月八日(水(すい))

時間・午後七時ー九時
場所・烏山区民センター 大広間(二階)

 また、歴史や時代背景を学び、或いは技術を向上させたい人のために、学習会や伝承会も行っています。
●日時 ・場所(随時)

 随時HP掲示板(ほーむぺーじけいじばん)等で通知

編集雑記
 正月休みや五月の連休もそうだが、後半に入るとやたらに早い。六月はまだ前半のはずだが、後半に向けての助走を始めたようだ。先日六月になったばかりだと思ったのに、もう十三日である。暑かったり雨が降ったり台風が来たりと、色々変化に富んでいたから天気に対応している間に日が進んだ。まだまだ埋もれた大道芸は沢山ある。しかし発掘作業が段々難しくなる。それでも本紙の毎月発行は極力維持するつもりである。

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