大道芸通信 第300号
『絵本風俗往来』が載せる珍商売
蘆廼葉散人(あしのはさんじん)・菊池貴一郎(1849~1925)は、四代目(よだいめ)歌川広重としても知られていたようである。代表作は、藩政時代江戸の風俗風物を挿絵と共に紹介した『江戸府内 絵本風俗往来』(明治三十八年=1905刊) である。その中から、紹介する。
丹波の荒熊
丹波国と云えば酒呑童子の住んでいた大江山があることで知られている。その連想からであろうが、荒熊も棲んでいたとされたようである。そんな荒熊を生け捕ったといって大声をあげ、一人芝居をして銭をもらい受けたのが、丹波の荒熊である。
竈の下に残る灰を水で溶いた灰墨を全身に塗り、荒縄で鉢巻きをして商店などの門口に立つ。そこで突然蹲り( うずくま )、右手に持った細竹で地面を叩いて耳目を集め、「丹波国から生け捕られた荒熊でござい。一つ鳴いて見せましょう」
そう云って鳴き真似をして銭を受け取ったのが、丹波の荒熊である。なお、『吾妻余波』が載せる「丹波国荒熊(たんばのくにあらくま)」(Tanba's bear)は、箍(たが)を持つ子供を連れていおり、自身の顔と首には墨を塗っているが、手足はそのままである。但し、腕は真ん中の模造を含め三本あり、本物の右腕は地面を叩くためであろうか、竹で造った箒状のものを持っている。
打間的(こじき)(=乞食)中にも種々(いろいろ)な工夫をして銭を稼ぐものが多くあるので、随分思ひ付きな事をして来るが、此の丹波国から生け捕った荒熊などと来ては、甚だ感服しかねる考へであるが、先ず自分の総身を灰墨で真っ黒に塗り荒縄で鉢巻きをして、天窓(あたま)(=頭)の乱髪だけは直(すぐ)に役に立つので、目ばかりギョロギョロ光らせて、頓然(いきなり)工商の店頭(みせさき)に来て大地に蹲居(うづくま)り、右の手に持つ細竹で地上をヒシアリと叩(たたい)て、「ヘエ丹波国から生け捕りました荒熊で御在。一つ鳴いてお目にかける。ブルルブルルブルル」と唇を鳴らすのが銭一文の価値であるが、此等(これら)は打間的(こじき)の無芸大食といふのである。
(『江戸府内絵本風俗往来』)
降 巫(いちこ)
降巫(いちこ)は呼びて口寄せといふことを行ふに、降巫は先ず坐を正しふしてもちきたる所の風呂敷包みを解き、中より箱を恭しく取りだし、自身の前に置く。蓋取り開きて弓矢を取り出し、押し戴いて弓に屋をつがへ、東西を向け、弦弾きを行ひたり。箱の前には兼ねて茶碗に清水を容れて南天の青葉一葉を浮かべしめたり。口寄せを頼む者は、茶碗の前に進みて坐す。降巫は細く消え入ると思ふ斗の声を作り出して神下ろしとて、日本六十余州の重(おも)なる御神名を唱ふこと終はって、次第に眠る如くなりし時、時分を斗(はか)らひ口寄せする人、南天の葉を摘(つま)みて水をそそぎかける。此(これ)を水向けといふ。此の頃人に噺を促すことを水を向くるとはいひたり。扨、水向けするや哀れなる絶え絶えしき声を出すは呼ぶ所の生き人か、死人の降巫の口を借りて物をいふ。此の時は已に口寄せ頼む者は、涙止め敢へず、悲しみむせびたり。此を口寄せといふ。此の光景(ありさま)は、昔本町庵三馬ぬしがものせる『浮世床』によく写し載すれば略す。降巫の江戸に来たるは、夏に限りたり。且つ老婆のみなりし。皆近在の訛言葉。衣服は帷子か単衣物小紋か細縞にして、藍鼠浅黄なり。帯は黒くして前に結び、横長の小箱を紺か浅黄色の風呂敷に包みて、中結ひを為して背負ふ。径(わた)り壱尺丸葉斗の竹の皮製の笠をかぶらずして手に持ち、白足袋を穿くが、降巫の約束とす。
当時は夏足袋といふことは禁制なり。もし足袋を夏穿くときは、足痛の体にて穿くものとす。故に夏足袋をもちゆるものなし。よりて夏白足袋を穿くものあるを見れば、降巫なりと嘲笑(あざけり)たり。此の風俗にて、降巫来たるよとと見れば、正直なる老婆はいざ知らず、若き男たちは夏の日の眠気覚まし。早々呼び入れ、昨夜遊びし所の遊女(あそびめ)を口に寄せてなぐさまんなどと打ち寄りて、口寄せを催す。三馬ぬしの浮世床はよく当時をうがちたりし也。
(『江戸府内絵本風俗往来』)
唐人飴 ホニホロ
唐人笠といふを被り、被服も同じく。此の頃唐人といふに拵へ紙張りの馬を造り、四本の足をぶらりとつり、馬の背に穴ありて、己の両足を其の穴に入れて馬をば己が腰に縊(くく)り付けて吾が足にて歩くや、馬のつりし足はぶらぶらとして恰も馬の足を運べる様見へたり。己は唐人笛を吹きながら駈ける。又笛を吹きて踊るなり。偖(さて)、路上程よき所を見斗ひて立ち、唐人笛を音高く吹き鳴らす。孫子(こども)等は笛の音を聞いて「ホニホロを行きて見ん」とて走り集まる。飴を買ふ者には、眼鏡を貸(かり)て見せしむ。眼鏡は玻璃(がらす)を八つに廉を摩(す)りて、糸を引くときは玉の廻る様作りたり。眼に当て見る時は八つ、乃ち八人に見へ、玉を廻せば八人同じく廻る。飴売りは眼鏡を貸切と、暫時(ざんじ)が間笛を吹き鳴らし、眼鏡を魅し所より二三間隔たりて身振り可笑(をか)しく、ハッ、ホニホロホニホロホニホロホニホロ はっ、下るはホニホロホニホロホニホロ
孫子等(こどもら)、余念なく面白がりて、飴を買ひ見んとせざるはなし。 (『江戸府内絵本風俗往来』)
ホニホロと同じ八角眼鏡を使っている絵を『風俗画報』中に見つけたので紹介する。但し、こちらは眼鏡の持ち主が、自分の踊る姿を見せる貸出専門の眼鏡である。
阿呆陀羅経道楽寺和尚
阿呆陀羅経といふものは物もらひの坊主。小さな木魚を二つ持ちて打ち叩きつつ人家の前にも来たり。また盛れる場所の路傍に立ちて戯れし文句を饒舌(しやべる)ものにして、其の戯れ文句を阿呆陀羅経といひ、阿呆陀羅経を読む者を道楽寺の和尚といふ。いはば一言にして其の説明白なりといへども全体阿呆陀羅経といへば、有難そうに聞こゆれども、至ってありやすき世間の穴を穿ちたる珍奇の口調なり。珍といへども寒中の筍、夏の氷の比類(たぐひ)にあらず。然らば鷺を烏と捻るにもあらず。只管(ひたすら)世間を馬と鹿にする所の経文なり。経文唱ふるは僧かといふと否、僧にもあらずまた俗にもあらず。去ればとて自称して道楽寺の和尚といふより脳袋(あたま)
も剃りて坊主なりしも、忍辱(にんにく)(諸々の侮辱、迫害を受任して恨まないこと)などの面倒も知らず。般若湯(酒)を嗜みて色欲凡情の念に執着たり。また博易に精(くは)しくして
而して其の勝負に解脱す。芝の新網、神田の橋本町、下谷山崎町は道楽寺和尚の本山と聞こへたり。此の和尚の修行を承るに、先づ第一に武家町人の差別なく、親の冨を遣ひつくし、家を敗(やぶ)り、親族知己に持て余され、借銭は返済するの念を去り手、此等(これら)のことは空と悟りけるを以て小乗とし、其の大乗に至りては、眼中鮭と博易三昧にして、其の他を知らざるを以て奥義としたり。徒弟多しといへども此の大乗の室に至るもの、十中二三に過ぎずとなり。而して其の上人の修行の難きこと押して知るべし。
歯 力
「籠脱(かごぬけ)」と同じ場所に出て諸人の銭を乞ふ。而して歯力の人を寄集(よりあつ)むるに、小盥に水を容(い)れ、其の所なる土を取りて盥の水中に混入し泥土水(どろみづ)となし、其の盥の縁へ口を付けて沢山に呑みたる後、滑稽戯言(こつけいぎげん)人を笑わしめて銭を乞ひて後、今呑みたる水を吐き出す。一度(ひとたび)は清水一度は濁水を吐く。其の吐き別けに人々驚かざるはなし。此を前芸の三番叟にして次第に種々の曲稽を(きよくげい )なし、最後に至りて四斗樽に水を一杯汲み容れたるを板戸の上に載せ置きまた水の入りたる二個(ふたつ)の手桶を樽の左右に据ゑ、二人にて此の樽、手桶載せたる板戸を差し上げしめ、己は口を開きて板戸の揚がるを待つ。板戸、口の前に来たるや歯にて噛みて左右の手を差し伸べ、歯に力を添へ、見物の銭を投げるを待つ。投げ銭の集まるを待ちて双手を放つ。今は全く歯の力のみにして、板戸の上なる四斗樽二個の手桶を保ち、悠然として看官(けんぶつ)は皆怪と叫び、且つ奇と叫ばざるはなく、去ればこそ用事ある足を止(とど)めて時を費やしける。然るにこは、前の籠抜けに比して聊か興味の薄きをおぼえたりける。
(『江戸府内絵本風俗往来』)
いやはや皆生きんが為の工夫を凝らしてはいるが、全て絶滅した。今でもあれば面白いだろうと思うのは「ホニホロ」だろう。しかしそれほど売れるとも思えないので採算面でどうだったのであろうか。「歯力」も凄いが、繰り返し見るようなものではない。「阿呆陀羅経」は風刺の効いたものは面白いが、どちらかというと小屋の中での芸である。「いちこ」は今でも年に一度、恐山へ行けば団体でいる。「丹波の荒熊」は嫌がらせ芸でしかない。
大道芸の会会員募集
「南京玉すだれ」や「がまの膏売り」など、日本庶民の伝統文化「大道芸」を一緒に覚えませんか。練習日は左記の通りです。
●第二九七回目 三月八日(水(すい))
●第二九八回目 四月十二日(水(すい))
時間・午後七時ー九時
場所・烏山区民センター 大広間(二階)
また、歴史や時代背景を学び、或いは技術を向上させたい人のために、学習会や伝承会も行っています。
●日時 ・場所(随時)
随時HP掲示板(ほーむぺーじけいじばん)等で通知
編集雑記
先月、映画『沈黙』の中で。『江戸の物売りと大道芸』の音声が使われるということを伝えたが、契約が間に合わなかったためか、外の音源に差し替えられていた。夫れdならそれでやむを得ない。諦めていたら、またまた契約したいといってきた。「差し替えられたようなので必要ないでしょう」と答えたら、複合使用されていたから気がつかなかったのではないかと食い下がってきた。それならそれでいいが、量的に引用で処理してくれと答えた。
蘆廼葉散人(あしのはさんじん)・菊池貴一郎(1849~1925)は、四代目(よだいめ)歌川広重としても知られていたようである。代表作は、藩政時代江戸の風俗風物を挿絵と共に紹介した『江戸府内 絵本風俗往来』(明治三十八年=1905刊) である。その中から、紹介する。
丹波の荒熊
丹波国と云えば酒呑童子の住んでいた大江山があることで知られている。その連想からであろうが、荒熊も棲んでいたとされたようである。そんな荒熊を生け捕ったといって大声をあげ、一人芝居をして銭をもらい受けたのが、丹波の荒熊である。
竈の下に残る灰を水で溶いた灰墨を全身に塗り、荒縄で鉢巻きをして商店などの門口に立つ。そこで突然蹲り( うずくま )、右手に持った細竹で地面を叩いて耳目を集め、「丹波国から生け捕られた荒熊でござい。一つ鳴いて見せましょう」
そう云って鳴き真似をして銭を受け取ったのが、丹波の荒熊である。なお、『吾妻余波』が載せる「丹波国荒熊(たんばのくにあらくま)」(Tanba's bear)は、箍(たが)を持つ子供を連れていおり、自身の顔と首には墨を塗っているが、手足はそのままである。但し、腕は真ん中の模造を含め三本あり、本物の右腕は地面を叩くためであろうか、竹で造った箒状のものを持っている。
打間的(こじき)(=乞食)中にも種々(いろいろ)な工夫をして銭を稼ぐものが多くあるので、随分思ひ付きな事をして来るが、此の丹波国から生け捕った荒熊などと来ては、甚だ感服しかねる考へであるが、先ず自分の総身を灰墨で真っ黒に塗り荒縄で鉢巻きをして、天窓(あたま)(=頭)の乱髪だけは直(すぐ)に役に立つので、目ばかりギョロギョロ光らせて、頓然(いきなり)工商の店頭(みせさき)に来て大地に蹲居(うづくま)り、右の手に持つ細竹で地上をヒシアリと叩(たたい)て、「ヘエ丹波国から生け捕りました荒熊で御在。一つ鳴いてお目にかける。ブルルブルルブルル」と唇を鳴らすのが銭一文の価値であるが、此等(これら)は打間的(こじき)の無芸大食といふのである。
(『江戸府内絵本風俗往来』)
降 巫(いちこ)
降巫(いちこ)は呼びて口寄せといふことを行ふに、降巫は先ず坐を正しふしてもちきたる所の風呂敷包みを解き、中より箱を恭しく取りだし、自身の前に置く。蓋取り開きて弓矢を取り出し、押し戴いて弓に屋をつがへ、東西を向け、弦弾きを行ひたり。箱の前には兼ねて茶碗に清水を容れて南天の青葉一葉を浮かべしめたり。口寄せを頼む者は、茶碗の前に進みて坐す。降巫は細く消え入ると思ふ斗の声を作り出して神下ろしとて、日本六十余州の重(おも)なる御神名を唱ふこと終はって、次第に眠る如くなりし時、時分を斗(はか)らひ口寄せする人、南天の葉を摘(つま)みて水をそそぎかける。此(これ)を水向けといふ。此の頃人に噺を促すことを水を向くるとはいひたり。扨、水向けするや哀れなる絶え絶えしき声を出すは呼ぶ所の生き人か、死人の降巫の口を借りて物をいふ。此の時は已に口寄せ頼む者は、涙止め敢へず、悲しみむせびたり。此を口寄せといふ。此の光景(ありさま)は、昔本町庵三馬ぬしがものせる『浮世床』によく写し載すれば略す。降巫の江戸に来たるは、夏に限りたり。且つ老婆のみなりし。皆近在の訛言葉。衣服は帷子か単衣物小紋か細縞にして、藍鼠浅黄なり。帯は黒くして前に結び、横長の小箱を紺か浅黄色の風呂敷に包みて、中結ひを為して背負ふ。径(わた)り壱尺丸葉斗の竹の皮製の笠をかぶらずして手に持ち、白足袋を穿くが、降巫の約束とす。
当時は夏足袋といふことは禁制なり。もし足袋を夏穿くときは、足痛の体にて穿くものとす。故に夏足袋をもちゆるものなし。よりて夏白足袋を穿くものあるを見れば、降巫なりと嘲笑(あざけり)たり。此の風俗にて、降巫来たるよとと見れば、正直なる老婆はいざ知らず、若き男たちは夏の日の眠気覚まし。早々呼び入れ、昨夜遊びし所の遊女(あそびめ)を口に寄せてなぐさまんなどと打ち寄りて、口寄せを催す。三馬ぬしの浮世床はよく当時をうがちたりし也。
(『江戸府内絵本風俗往来』)
唐人飴 ホニホロ
唐人笠といふを被り、被服も同じく。此の頃唐人といふに拵へ紙張りの馬を造り、四本の足をぶらりとつり、馬の背に穴ありて、己の両足を其の穴に入れて馬をば己が腰に縊(くく)り付けて吾が足にて歩くや、馬のつりし足はぶらぶらとして恰も馬の足を運べる様見へたり。己は唐人笛を吹きながら駈ける。又笛を吹きて踊るなり。偖(さて)、路上程よき所を見斗ひて立ち、唐人笛を音高く吹き鳴らす。孫子(こども)等は笛の音を聞いて「ホニホロを行きて見ん」とて走り集まる。飴を買ふ者には、眼鏡を貸(かり)て見せしむ。眼鏡は玻璃(がらす)を八つに廉を摩(す)りて、糸を引くときは玉の廻る様作りたり。眼に当て見る時は八つ、乃ち八人に見へ、玉を廻せば八人同じく廻る。飴売りは眼鏡を貸切と、暫時(ざんじ)が間笛を吹き鳴らし、眼鏡を魅し所より二三間隔たりて身振り可笑(をか)しく、ハッ、ホニホロホニホロホニホロホニホロ はっ、下るはホニホロホニホロホニホロ
孫子等(こどもら)、余念なく面白がりて、飴を買ひ見んとせざるはなし。 (『江戸府内絵本風俗往来』)
ホニホロと同じ八角眼鏡を使っている絵を『風俗画報』中に見つけたので紹介する。但し、こちらは眼鏡の持ち主が、自分の踊る姿を見せる貸出専門の眼鏡である。
阿呆陀羅経道楽寺和尚
阿呆陀羅経といふものは物もらひの坊主。小さな木魚を二つ持ちて打ち叩きつつ人家の前にも来たり。また盛れる場所の路傍に立ちて戯れし文句を饒舌(しやべる)ものにして、其の戯れ文句を阿呆陀羅経といひ、阿呆陀羅経を読む者を道楽寺の和尚といふ。いはば一言にして其の説明白なりといへども全体阿呆陀羅経といへば、有難そうに聞こゆれども、至ってありやすき世間の穴を穿ちたる珍奇の口調なり。珍といへども寒中の筍、夏の氷の比類(たぐひ)にあらず。然らば鷺を烏と捻るにもあらず。只管(ひたすら)世間を馬と鹿にする所の経文なり。経文唱ふるは僧かといふと否、僧にもあらずまた俗にもあらず。去ればとて自称して道楽寺の和尚といふより脳袋(あたま)
も剃りて坊主なりしも、忍辱(にんにく)(諸々の侮辱、迫害を受任して恨まないこと)などの面倒も知らず。般若湯(酒)を嗜みて色欲凡情の念に執着たり。また博易に精(くは)しくして
而して其の勝負に解脱す。芝の新網、神田の橋本町、下谷山崎町は道楽寺和尚の本山と聞こへたり。此の和尚の修行を承るに、先づ第一に武家町人の差別なく、親の冨を遣ひつくし、家を敗(やぶ)り、親族知己に持て余され、借銭は返済するの念を去り手、此等(これら)のことは空と悟りけるを以て小乗とし、其の大乗に至りては、眼中鮭と博易三昧にして、其の他を知らざるを以て奥義としたり。徒弟多しといへども此の大乗の室に至るもの、十中二三に過ぎずとなり。而して其の上人の修行の難きこと押して知るべし。
歯 力
「籠脱(かごぬけ)」と同じ場所に出て諸人の銭を乞ふ。而して歯力の人を寄集(よりあつ)むるに、小盥に水を容(い)れ、其の所なる土を取りて盥の水中に混入し泥土水(どろみづ)となし、其の盥の縁へ口を付けて沢山に呑みたる後、滑稽戯言(こつけいぎげん)人を笑わしめて銭を乞ひて後、今呑みたる水を吐き出す。一度(ひとたび)は清水一度は濁水を吐く。其の吐き別けに人々驚かざるはなし。此を前芸の三番叟にして次第に種々の曲稽を(きよくげい )なし、最後に至りて四斗樽に水を一杯汲み容れたるを板戸の上に載せ置きまた水の入りたる二個(ふたつ)の手桶を樽の左右に据ゑ、二人にて此の樽、手桶載せたる板戸を差し上げしめ、己は口を開きて板戸の揚がるを待つ。板戸、口の前に来たるや歯にて噛みて左右の手を差し伸べ、歯に力を添へ、見物の銭を投げるを待つ。投げ銭の集まるを待ちて双手を放つ。今は全く歯の力のみにして、板戸の上なる四斗樽二個の手桶を保ち、悠然として看官(けんぶつ)は皆怪と叫び、且つ奇と叫ばざるはなく、去ればこそ用事ある足を止(とど)めて時を費やしける。然るにこは、前の籠抜けに比して聊か興味の薄きをおぼえたりける。
(『江戸府内絵本風俗往来』)
いやはや皆生きんが為の工夫を凝らしてはいるが、全て絶滅した。今でもあれば面白いだろうと思うのは「ホニホロ」だろう。しかしそれほど売れるとも思えないので採算面でどうだったのであろうか。「歯力」も凄いが、繰り返し見るようなものではない。「阿呆陀羅経」は風刺の効いたものは面白いが、どちらかというと小屋の中での芸である。「いちこ」は今でも年に一度、恐山へ行けば団体でいる。「丹波の荒熊」は嫌がらせ芸でしかない。
大道芸の会会員募集
「南京玉すだれ」や「がまの膏売り」など、日本庶民の伝統文化「大道芸」を一緒に覚えませんか。練習日は左記の通りです。
●第二九七回目 三月八日(水(すい))
●第二九八回目 四月十二日(水(すい))
時間・午後七時ー九時
場所・烏山区民センター 大広間(二階)
また、歴史や時代背景を学び、或いは技術を向上させたい人のために、学習会や伝承会も行っています。
●日時 ・場所(随時)
随時HP掲示板(ほーむぺーじけいじばん)等で通知
編集雑記
先月、映画『沈黙』の中で。『江戸の物売りと大道芸』の音声が使われるということを伝えたが、契約が間に合わなかったためか、外の音源に差し替えられていた。夫れdならそれでやむを得ない。諦めていたら、またまた契約したいといってきた。「差し替えられたようなので必要ないでしょう」と答えたら、複合使用されていたから気がつかなかったのではないかと食い下がってきた。それならそれでいいが、量的に引用で処理してくれと答えた。