大道芸通信 第299号
半 田 行 人 の 変 遷
「半田行人」は、武州東葛西領金町(東京都葛飾区金町)にある半田稲荷が発祥である。享保年間(一七一六~三六)に麻疹(はしか)や疱瘡(ほうそう)が流行った際、三宝院(半田稲荷別当寺。明治初年、廃仏毀釈により廃寺)の僧侶が、茜木綿(あかねもめん)製の法衣をまとい、赤地に白抜きで「半田稲荷大明神」と染め抜いた幟を立てて、「葛西金町半田の稲荷、麻疹も軽いが疱瘡も軽い」
と病魔退散を祈願しながら、市中を練り歩いた。
これを受けてのことだろう。『武江年表』も 、半田稲荷へ参詣者が多く集まったのは、(疱瘡(ほうそう)や麻疹(はしか)が流行(はや)った)享保年間のことと記す。疫神の藁人形を作り、鉦や太鼓で賑やかに囃しつつ海へ流した。
(享保十八年)七月上旬より疫癘(えきれい)(疫病、流行病、伝染病)天下におこなはる。十三日十四日、大路往来絶えたり。藁にて疫神の形を作り、これを送るとて鉦太鼓を鳴らし、囃しつれて海辺に至る。 (『武江年表』)
このように、当初は半田稲荷の僧侶が行っていたのが半田行人である。鉦太鼓を鳴らしながら、「疱瘡も軽いし麻疹も軽い」と唱え、疫神(藁人形)を送り出した。
そんな半田行人の姿形が評判となり、後には芝居等でも演じられるようになった。明和三年(一七六六)、『江戸名所柳島通』の演題で上演(市村座)されたのを手始めに、天明四年(一七八四)には大坂角座でも上演されたりした。
これらの人気にあやかり、麻疹(はしか)や疱瘡(ほうそう)の流行が終わった後は、願人が眼をつけた。
「ご利生ご利生」と唱えながら、狐の頭を付けた腕を伸ばしたり縮めたりするようになった。文化十年(一八一三)に刊行された『金の草鞋』(刊)は、「柳の稲荷」(東都八十八箇所の一)でこれを行っている願人を載せる。
「御利生(ごりしよう) ごりしょう 大きな御利生 大きなごりしょう」
(と唱ては喜捨を受けていた。そのくせ、)
「わしは今はこんななりをしているが、これでも昔は歴々の知行取りの若旦那」
(と、曰い続けていたていたようである。だから、)
「今ではまた施行取りの馬鹿ダンナが、聞いて呆れる」(と、嗤われていた)
(『金の草鞋』)
御利生とは、仏が衆生を(しゆじよう )利益(りやく)(法力により恩恵を付与)することだが、「稲荷さ
んより私の方が 素敵な御利生と思はんせ」の都々逸が残るように、男性器の隠語。
『守貞漫稿』の著者喜多川
守貞が江戸へ下り、同書を記録し始めたのは、天保六年からである。偶々その頃も江戸で流行っていた半田行人について見たか聞いたかしたのだろうが、始まりについては、天保年間(一八三〇~四四)としている。
天保中、(半田稲荷行人)初めてこれを行ひ、今は廃せり。その扮、京坂の
金比羅行人と同じくして、白を紅に換ふるのみ。諸服必ず紅綿。手に紅綿の幟に半田稲荷大明神と筆せるを携へ、右手にれい(鈴)を振り、痘瘡麻疹の軽を祈るに矯げて、専ら 諧謔踊躍す。 (『守貞漫稿』)
手には「半田稲荷大明神」と書かれた紅綿の幟を持ち、右手に鈴を振りとあるから、姿形は初期半田行人を
踏襲している。
しかし、発祥を天保年間とした『守貞漫稿』の説は訂正の要がある。訂正と云えば、これに限らず長期に亘り行われた事項について述べる『守貞漫稿』の説は、再検討した方がいいことがままある。とりわけ天保年間、守貞が江戸へ来た時には、衰退したりなくなっていたものは疑った方がいい。
同署は序文に、《天保八年以来、見聞に従ひ、これを散紙に筆し》とあるように、守貞自身が見聞きしたことを中心に筆を進めている。従って、見聞したことのない事項については、別の資料とずれていることが結構ある。
抑(そもそ)も半田稲荷へ参詣者が増えた享保年間と云うのは、疫病に限らず、火事や飢饉に襲われるなど、極めて政情不安の要素が強かった。それ故、人々は宗教に救いを求めることが多かったのである。富士講の食行身録が富士山中で絶食入定(十八年)したり、目黒の高幢寺(金毘羅大権現)が開創(または再興)されたりしたのも享保年間である。明治になると早々に姿を消した(廃仏毀釈の影響か?)ため、資料のない高幢寺だが、寛延元年(一七四八)には、境内地として、八千九百四十坪(約二九五〇二㎡)もの寄進を受けてもいる。打ち続く火事に対処すべく、町火消し制度を立ち上げたのも享保年間である。
対する天保年間に始まったとする『守貞漫稿』の説は、《痘瘡(とうそう)麻疹(はしか)の軽を祈るに矯(ま)げ、専ら諧謔(かいぎやく)踊(よう)躍(やく)す(ギャグと踊りをする)》のである。
また天保年間には、伊勢神宮へのお陰参りの流行や天候不順による飢饉はあったが、疱瘡も麻疹も流行ってはいない。真面目に祈祷が行われたというより、『吾妻余派(あづまのなごり)』が描くように、『金の草鞋』が描く「御利生」の進化形と考えた方が辻褄があう。
そんな願人が行う半田行人(お稲荷さんの御利生)がいつまで続いたかというと、『街の姿』が、安政(一八五四~六〇)頃迄あったと左記のように書く。
お稲荷さんの御利生、すてきな御利生は戸毎に立ちて銭を乞ふ願人坊主なりき。一枚の板に仕掛けある螺旋を延縮すれば、狐の面も又延縮す。此者、安政の頃迄ありたれど、 其後は絶えたるにや来たらず。 (『街の姿』)
最早行人の姿さえしておらず、嫌がらせをして銭をせしめる単なる物貰いでしかない。
金 比 羅 行 人
『守貞漫稿』が、半田行人の扮装について、《京坂の金比羅行人と同じくして、白を紅に換ふるのみ》と書いている。つまり、半田行人と金比羅行人は色違いだが同じ扮装だといっている。ただ残念なことは、金比羅行人を描いた絵は背中に背負った天狗面を中心に描いたものばかりで、正面からのものは見たことがない。紅白合戦は衣装だけではなく挿絵にも及び、半田稲荷は前から、金比羅行人は後彼楽のが定番になっていたようである。
喩えそうであっても、衣装の色と描き方だけを比べても、面白うも何ともない。金比羅行人に絞ってみる。
現在は金刀比羅宮(ことひらぐう)といったり、琴平宮(ことひらぐう)と書いたりする金比羅(こんぴら)さんだが、藩政時代迄は、象頭山松尾寺と呼ばれる真言宗寺院であり、金毘羅大権現と呼ばれていた。
ところが明治維新時の神仏混淆禁止令に伴い、金比羅権現の別当・象頭山松尾寺金光院は廃寺とされ、国家神道の琴平神社(同年七月に金刀比羅宮と改称)へ強制的に改組された。
主祭神も「未だ詳らかならず。或は云う三輪大明神」から大物主へ変更され、相殿に崇徳天皇を祀り、現在に至っている(誰も知らないが=陰の声)。
従って、金比羅行人が活躍していたのは、金比羅権現が寺院であった頃である。
そもそも金毘羅権現の金毘羅とは、薬師如来を守護する十二神将の筆頭、宮毘羅大将のことである。宮毘羅大将とは、ガンジス川の守り神クンビーラ(=ヒンドウ教)を漢音読み(=仏教)したもの。また権現とは、仮に現れること、仏が(日本の)神に姿を変えて現れること。
仏教伝来以来、日本に土着していた八百万の神々は、様々な仏が化身して現れた権現であると云うことになった。こうして本地垂迹説がはじまり、明治元年(1868)に神仏混淆禁止令が発せられるまで続いた。
だから、現在金刀比羅宮を名乗る金毘羅さんも、明治までは金毘羅大権現が正式名称であった。
その元である宮毘羅ことクンビーラは、ガンジス川に棲む鰐を神格化した水神であったから、日本では海上交通の守護神として信仰されるようになった。とりわけ舟乗りに信仰され、通常、海上から目印となる山の上に祀られる事が多い。
讃岐国(香川県)の象頭山は、漁民や船乗りたちから航海の目印として、古くから信仰されていた。
そんな金毘羅行人が天狗の面を背負うのは、《(別当の)宥盛は死の直前には神体を守るために天狗に身を変えたとの伝説》(金比羅宮HP)や『和漢三才図会』の「金毘羅権現」項に載せる。
《当山(金毘羅権現)ノ天狗ヲ金比
羅坊ト名ヅク》に因る。扮装について『守貞漫稿』は、次のように述べる。
衣服および手足の服、(略)皆白木綿なり。また頭を白木綿をもって突 のごとく包み、その余布を両耳の上に捻ぢ結び、そのまた余を二尺(約60㌢)ばかり垂れ下す。右手に鈴を振りて、だらに(陀羅尼)および祈念の文を唱す。首に施米の筥をかくる。すなはち筥は胸にあり。 (『守貞漫稿』)
更に、自ら参詣できない人のために、「流し樽」と云う方法があった。(現在も行われている?)酒や賽銭・初穂料を樽に入れ、「奉納 金毘羅大権現」と書いた幟を立てて海上に流すと、それを拾い上げた人は代参して宝前に奉る。すると、流した人は勿論、拾って代参した人にも御利益があり、心願成就すると信じられていた。
それ程、様々な方法が金毘羅信仰にはあった。それだけに、信者でもない願人坊主が生活のために行うことも多かった。彼等は四国へ行くことなどなく、年中江戸に住み、市内近郷を廻って生活費としての喜捨を集めるだけであった。
大道芸の会会員募集
「南京玉すだれ」や「がまの膏売り」など、日本庶民の伝統文化「大道芸」を一緒に覚えませんか。練習日は左記の通りです。
●第二九七回目 二月八日(水(すい))
●第二九八回目 三月八日(水(すい))
時間・午後七時ー九時
場所・烏山区民センター 大広間(二階)
また、歴史や時代背景を学び、或いは技術を向上させたい人のために、学習会や伝承会も行っています。
●日時 ・場所(随時)
随時HP掲示板(ほーむぺーじけいじばん)等で通知
編集雑記
今月二十一日から全国一斉に上映される映画『沈黙』(遠藤周作原作、マーティン・スコセッシ監督)で、当会が春秋彼岸に出演している深川江戸資料館主催イベント・「江戸の物売りと大道芸」での音声が一部使われるようである。
小生も未だ映画を見ていないからどんな使い方をされたか興味はあるが、複雑な気持ちである。これからも日本ブームは当分続くだろう。誰に見せても恥ずかしくないレベルを保つのは大変だがやりがいもある。
「半田行人」は、武州東葛西領金町(東京都葛飾区金町)にある半田稲荷が発祥である。享保年間(一七一六~三六)に麻疹(はしか)や疱瘡(ほうそう)が流行った際、三宝院(半田稲荷別当寺。明治初年、廃仏毀釈により廃寺)の僧侶が、茜木綿(あかねもめん)製の法衣をまとい、赤地に白抜きで「半田稲荷大明神」と染め抜いた幟を立てて、「葛西金町半田の稲荷、麻疹も軽いが疱瘡も軽い」
と病魔退散を祈願しながら、市中を練り歩いた。
これを受けてのことだろう。『武江年表』も 、半田稲荷へ参詣者が多く集まったのは、(疱瘡(ほうそう)や麻疹(はしか)が流行(はや)った)享保年間のことと記す。疫神の藁人形を作り、鉦や太鼓で賑やかに囃しつつ海へ流した。
(享保十八年)七月上旬より疫癘(えきれい)(疫病、流行病、伝染病)天下におこなはる。十三日十四日、大路往来絶えたり。藁にて疫神の形を作り、これを送るとて鉦太鼓を鳴らし、囃しつれて海辺に至る。 (『武江年表』)
このように、当初は半田稲荷の僧侶が行っていたのが半田行人である。鉦太鼓を鳴らしながら、「疱瘡も軽いし麻疹も軽い」と唱え、疫神(藁人形)を送り出した。
そんな半田行人の姿形が評判となり、後には芝居等でも演じられるようになった。明和三年(一七六六)、『江戸名所柳島通』の演題で上演(市村座)されたのを手始めに、天明四年(一七八四)には大坂角座でも上演されたりした。
これらの人気にあやかり、麻疹(はしか)や疱瘡(ほうそう)の流行が終わった後は、願人が眼をつけた。
「ご利生ご利生」と唱えながら、狐の頭を付けた腕を伸ばしたり縮めたりするようになった。文化十年(一八一三)に刊行された『金の草鞋』(刊)は、「柳の稲荷」(東都八十八箇所の一)でこれを行っている願人を載せる。
「御利生(ごりしよう) ごりしょう 大きな御利生 大きなごりしょう」
(と唱ては喜捨を受けていた。そのくせ、)
「わしは今はこんななりをしているが、これでも昔は歴々の知行取りの若旦那」
(と、曰い続けていたていたようである。だから、)
「今ではまた施行取りの馬鹿ダンナが、聞いて呆れる」(と、嗤われていた)
(『金の草鞋』)
御利生とは、仏が衆生を(しゆじよう )利益(りやく)(法力により恩恵を付与)することだが、「稲荷さ
んより私の方が 素敵な御利生と思はんせ」の都々逸が残るように、男性器の隠語。
『守貞漫稿』の著者喜多川
守貞が江戸へ下り、同書を記録し始めたのは、天保六年からである。偶々その頃も江戸で流行っていた半田行人について見たか聞いたかしたのだろうが、始まりについては、天保年間(一八三〇~四四)としている。
天保中、(半田稲荷行人)初めてこれを行ひ、今は廃せり。その扮、京坂の
金比羅行人と同じくして、白を紅に換ふるのみ。諸服必ず紅綿。手に紅綿の幟に半田稲荷大明神と筆せるを携へ、右手にれい(鈴)を振り、痘瘡麻疹の軽を祈るに矯げて、専ら 諧謔踊躍す。 (『守貞漫稿』)
手には「半田稲荷大明神」と書かれた紅綿の幟を持ち、右手に鈴を振りとあるから、姿形は初期半田行人を
踏襲している。
しかし、発祥を天保年間とした『守貞漫稿』の説は訂正の要がある。訂正と云えば、これに限らず長期に亘り行われた事項について述べる『守貞漫稿』の説は、再検討した方がいいことがままある。とりわけ天保年間、守貞が江戸へ来た時には、衰退したりなくなっていたものは疑った方がいい。
同署は序文に、《天保八年以来、見聞に従ひ、これを散紙に筆し》とあるように、守貞自身が見聞きしたことを中心に筆を進めている。従って、見聞したことのない事項については、別の資料とずれていることが結構ある。
抑(そもそ)も半田稲荷へ参詣者が増えた享保年間と云うのは、疫病に限らず、火事や飢饉に襲われるなど、極めて政情不安の要素が強かった。それ故、人々は宗教に救いを求めることが多かったのである。富士講の食行身録が富士山中で絶食入定(十八年)したり、目黒の高幢寺(金毘羅大権現)が開創(または再興)されたりしたのも享保年間である。明治になると早々に姿を消した(廃仏毀釈の影響か?)ため、資料のない高幢寺だが、寛延元年(一七四八)には、境内地として、八千九百四十坪(約二九五〇二㎡)もの寄進を受けてもいる。打ち続く火事に対処すべく、町火消し制度を立ち上げたのも享保年間である。
対する天保年間に始まったとする『守貞漫稿』の説は、《痘瘡(とうそう)麻疹(はしか)の軽を祈るに矯(ま)げ、専ら諧謔(かいぎやく)踊(よう)躍(やく)す(ギャグと踊りをする)》のである。
また天保年間には、伊勢神宮へのお陰参りの流行や天候不順による飢饉はあったが、疱瘡も麻疹も流行ってはいない。真面目に祈祷が行われたというより、『吾妻余派(あづまのなごり)』が描くように、『金の草鞋』が描く「御利生」の進化形と考えた方が辻褄があう。
そんな願人が行う半田行人(お稲荷さんの御利生)がいつまで続いたかというと、『街の姿』が、安政(一八五四~六〇)頃迄あったと左記のように書く。
お稲荷さんの御利生、すてきな御利生は戸毎に立ちて銭を乞ふ願人坊主なりき。一枚の板に仕掛けある螺旋を延縮すれば、狐の面も又延縮す。此者、安政の頃迄ありたれど、 其後は絶えたるにや来たらず。 (『街の姿』)
最早行人の姿さえしておらず、嫌がらせをして銭をせしめる単なる物貰いでしかない。
金 比 羅 行 人
『守貞漫稿』が、半田行人の扮装について、《京坂の金比羅行人と同じくして、白を紅に換ふるのみ》と書いている。つまり、半田行人と金比羅行人は色違いだが同じ扮装だといっている。ただ残念なことは、金比羅行人を描いた絵は背中に背負った天狗面を中心に描いたものばかりで、正面からのものは見たことがない。紅白合戦は衣装だけではなく挿絵にも及び、半田稲荷は前から、金比羅行人は後彼楽のが定番になっていたようである。
喩えそうであっても、衣装の色と描き方だけを比べても、面白うも何ともない。金比羅行人に絞ってみる。
現在は金刀比羅宮(ことひらぐう)といったり、琴平宮(ことひらぐう)と書いたりする金比羅(こんぴら)さんだが、藩政時代迄は、象頭山松尾寺と呼ばれる真言宗寺院であり、金毘羅大権現と呼ばれていた。
ところが明治維新時の神仏混淆禁止令に伴い、金比羅権現の別当・象頭山松尾寺金光院は廃寺とされ、国家神道の琴平神社(同年七月に金刀比羅宮と改称)へ強制的に改組された。
主祭神も「未だ詳らかならず。或は云う三輪大明神」から大物主へ変更され、相殿に崇徳天皇を祀り、現在に至っている(誰も知らないが=陰の声)。
従って、金比羅行人が活躍していたのは、金比羅権現が寺院であった頃である。
そもそも金毘羅権現の金毘羅とは、薬師如来を守護する十二神将の筆頭、宮毘羅大将のことである。宮毘羅大将とは、ガンジス川の守り神クンビーラ(=ヒンドウ教)を漢音読み(=仏教)したもの。また権現とは、仮に現れること、仏が(日本の)神に姿を変えて現れること。
仏教伝来以来、日本に土着していた八百万の神々は、様々な仏が化身して現れた権現であると云うことになった。こうして本地垂迹説がはじまり、明治元年(1868)に神仏混淆禁止令が発せられるまで続いた。
だから、現在金刀比羅宮を名乗る金毘羅さんも、明治までは金毘羅大権現が正式名称であった。
その元である宮毘羅ことクンビーラは、ガンジス川に棲む鰐を神格化した水神であったから、日本では海上交通の守護神として信仰されるようになった。とりわけ舟乗りに信仰され、通常、海上から目印となる山の上に祀られる事が多い。
讃岐国(香川県)の象頭山は、漁民や船乗りたちから航海の目印として、古くから信仰されていた。
そんな金毘羅行人が天狗の面を背負うのは、《(別当の)宥盛は死の直前には神体を守るために天狗に身を変えたとの伝説》(金比羅宮HP)や『和漢三才図会』の「金毘羅権現」項に載せる。
《当山(金毘羅権現)ノ天狗ヲ金比
羅坊ト名ヅク》に因る。扮装について『守貞漫稿』は、次のように述べる。
衣服および手足の服、(略)皆白木綿なり。また頭を白木綿をもって突 のごとく包み、その余布を両耳の上に捻ぢ結び、そのまた余を二尺(約60㌢)ばかり垂れ下す。右手に鈴を振りて、だらに(陀羅尼)および祈念の文を唱す。首に施米の筥をかくる。すなはち筥は胸にあり。 (『守貞漫稿』)
更に、自ら参詣できない人のために、「流し樽」と云う方法があった。(現在も行われている?)酒や賽銭・初穂料を樽に入れ、「奉納 金毘羅大権現」と書いた幟を立てて海上に流すと、それを拾い上げた人は代参して宝前に奉る。すると、流した人は勿論、拾って代参した人にも御利益があり、心願成就すると信じられていた。
それ程、様々な方法が金毘羅信仰にはあった。それだけに、信者でもない願人坊主が生活のために行うことも多かった。彼等は四国へ行くことなどなく、年中江戸に住み、市内近郷を廻って生活費としての喜捨を集めるだけであった。
大道芸の会会員募集
「南京玉すだれ」や「がまの膏売り」など、日本庶民の伝統文化「大道芸」を一緒に覚えませんか。練習日は左記の通りです。
●第二九七回目 二月八日(水(すい))
●第二九八回目 三月八日(水(すい))
時間・午後七時ー九時
場所・烏山区民センター 大広間(二階)
また、歴史や時代背景を学び、或いは技術を向上させたい人のために、学習会や伝承会も行っています。
●日時 ・場所(随時)
随時HP掲示板(ほーむぺーじけいじばん)等で通知
編集雑記
今月二十一日から全国一斉に上映される映画『沈黙』(遠藤周作原作、マーティン・スコセッシ監督)で、当会が春秋彼岸に出演している深川江戸資料館主催イベント・「江戸の物売りと大道芸」での音声が一部使われるようである。
小生も未だ映画を見ていないからどんな使い方をされたか興味はあるが、複雑な気持ちである。これからも日本ブームは当分続くだろう。誰に見せても恥ずかしくないレベルを保つのは大変だがやりがいもある。