大同芸通信第278号
江戸の珍商売(生業)④
孝 行 糖
元々上方落語であったが、明治期に三代目三遊亭圓馬によって東京落語の演目にもなった。落語の枕に「魚屋」「ふるい屋」「荒金屋=金属回収業」が出て来ることが多い。つまり、最初に魚屋が出て来る。振り声は例えば鰯。(いわし )「いわしこオ、いわしこオ」。すると篩屋(ふるいや)が「ふるいふるい」。その後から荒金屋が、「ふるかねエ、ふるかねエ」。
落語の粗筋(あらすじ)は次の通り。
主人公の若者(上方=大工の吉兵衛、東京=与太郎)は、「親を大変大切にしている」と奉行所から表彰され、褒賞金として「青緡(あおざし) 五貫(文)を下賜された。
青緡とは公儀から下賜される際に用いた紺染の銭緡(ぜにさし)。五貫文は、五千文。銭緡に緡(さし)たままだと、一本九十六文を百文に通用させた。しかし、銭緡から外してバラバラで使用する場合は、96×50=4800文であった。 百文当たり四文は手数料であり、他の通貨である金貨や銀貨と交換する場合に割り切れるようにするためとも云われる。
(当初の公定レート)
金貨一両=(りよう )四分(ぶ)=十六朱(しゆ)=銀貨六十匁=(もんめ )銀六百分(ぶ)=銭貨四貫文=(96×40=3840文)。 扨て、咄を元へ戻す。
報奨金を貰ったことを知った長屋の住人や大家は、若者に何か商売を始めることを勧める。その結果、飴屋を始めることとなり、「孝行糖」と名づけた。
その出で立ちと売り声は左記のようであった。
衣装については、鉦や太鼓を持たせ、派手な衣装を着せた。続いて売り声。衣装に勝るとも劣らない派手な言い立てであった。
「孝行糖、孝行糖。孝行糖の本来は、うるの小米(こごめ)に寒(かん)晒(ざら)し。カヤに銀杏(ぎんなん)、肉桂(につき)に丁(ちよう)字(じ)。チャンチキチ、スケテンテン。昔々唐土(もろこし)の、二十四孝のその中で、老莱子(ろうらいし)といえる人。親を大事にしようとて、こしらえあげたる孝行糖。食べてみな、おいしいよ、また売れたったらうれしいね。テンテレツク、スッテンテン」
飴は売れに売れて商売繁盛となる。が、好事魔多しの例令通り、葬儀が行われている蔵屋敷(上方)や武家屋敷門前(東京)で、「静かに静かに」と云われても賑やかにやったものだから袋だたきにされてしまった。
そこへ偶々知り合いが通りかかったため助けられ、「何処を殴られたか」と聞かれ、
「こオこオとオ(ここと)、こオこオとオ(ここと)」
如何にも落語らしいサゲである。実際の孝行糖売りは上図のようであった。
雨も降らぬに「孝行糖」と筆太に書いた大きな傘を差し、 飴を入れた挟箱を(はさみばこ )担って振り声を言い立てているのであろう。
なお『街の姿』の説明は次のように書く。
《孝行糖は、図の如き風俗したるもの七八人。若くわ(は)十人位ひ一連となりて
「昔し々々もろこしで、孟宗といふ人は、親に孝行しようとて、つくり始めし孝行糖云々」。安政(1854~1860)のはじめに流行す》
◎掃込婆(はきこみばばあ)
《一本の竹箒の先に、小判を数十結び付け、
「さっさ掃き込み掃き込み、どんどん掃き込み、大判小判を一度に掃き込み、さっさ掃き込み掃き込み」》 (『街の姿』)
小判を沢山付けた竹箒で掃き混むのはゴミではないぞ。福だから、おおいに掃き込みましょうと云う訳である。それが嫌なら○を出せ。と云うことなのだろう。
『守貞漫稿』が載せる「掃除」と真逆の発想である。同書は次のように書く。
《(掃除は)三都にあり。竹箒を持って戸前を掃くといえども魏勃(人名=詳細は『江戸の大道芸人』にあり)を倣うにあらず。「庄介しよ、掃除をしよ、朝から晩まで掃除をしよしよ」と呼ばわり銭を乞う》
つまり、掃除をしてやるから銭を出せ、と云っているのである。出さなければ、当然店の中へごみを掃き込む。
方や「掃き込みを止めて欲しければ銭を出せ」であり、もう一方は、
「掃除を止めて欲しければ銭を出せ」である。「掃込婆」が先に来て掃き込んだゴミを、「庄介しょう」が後から来れば恰度いい。しかし、逆だったら二重被害である。
同時に来て、店前で順位を巡って喧嘩になったらどうするか。咄としては面白いが、実際にこんなのが現れたら迷惑千万である。それでも許せたのだから、江戸に限らず昔の人は度量が大きい。
『街の姿』も挿絵と共に紹介している。
《天保八九年(1837~1838)の頃、正助せふといふ乞食、一本の竹箒を持ち、朝早く戸毎、彼の箒にて門を掃きながら、「正助せふ。そうじをせふ。
掃除が済んだら一番せふ、と極めていやみなる言(いい)ぶりなり。殊に此の者は目尻下がり、はけ先を長くし、一見歯の浮きそうなる風体なりしとぞ》 なお、同人自筆の『加賀本』の解説は若干異なる。
《正助せふ、掃除をせふ。綺麗にせふ。掃除が済んだら一番せふ。正助といふ物貰は嘉永(1848~1854)頃最も名高し。毎朝早く竹箒を携へ来たり、前記の如きことを、極めてきざなる言にて喋々し、畢りて箒をかつぎて、一番せふといふが如きは、実に胸の悪くなるほど気ざなりしとぞ》
案外人気があったようだ。
◎安 珍(あんちん)
《「あの安珍めが人をだまし。し(日)高川を鬼に成りても、この臼で搗(つ)いて搗いて搗き抜いて。重い杵(きね)とはどうよくな」天保十二三年の頃、此の乞食、安珍とて名高し》『街の姿』
実際の安珍清姫物語は、安珍に裏切られた?清姫が蛇になって安珍を追いかけ、鐘の
中に隠れた安珍を鐘諸共蒸し焼きにすると云うものである。それでも十分残酷なのに臼で搗いて搗いて肉団子にしようというのだから恐れ入る。かちかち山の話で、婆さんを欺した狸が、狸汁ならぬ婆汁をこしらえ、爺さんに喰わせた咄を思い出す。『水滸伝』には、敗者を喰う話が沢山出て来るが、日本も人を喰う習慣があったのだろう。
◎ 三井寺へ行ふ
《大きなる張子のつり鐘を背負、紙にて作りし鎧を着し、弁慶の法師姿にぎ(擬)して戸毎に立て、三井寺へ行(ゆか)ふ。ごん……といふて、銭を貰ふ乞食也》 (絵文共『街の姿』)
これは弁慶の引き摺り鐘伝説を受けてのものである。弁慶の引き摺り鐘伝説は次のようなものである。
三井寺(園城寺・寺門派)初代の梵鐘は、承平年間(931~938)に田原藤太秀郷が三上山の百足(むかで)退治のお礼として 琵琶湖の龍神より貰ったと伝わる。その後、延暦寺(山門派)と争いの際、弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げた。
その鐘を撞いてみると、
「いのう(帰ろう)いのう(帰ろう)」と響いた。それを聞いた弁慶は、
「そんなに三井寺へいにたいか!」と怒り、鐘を谷底へ投げ捨ててしまった。今も、その時に出来た傷痕や破目などが鐘に残っている。
◎ 和尚今日(おしようきよう) (和尚今日『吾妻余波』)
『守貞漫稿』は次のように書く。
《天保頃、乞食童、小さき土偶数品を袂に(たもと )入れ、毎戸敷居上にこれを並べ、初め一土偶を置く時、
「和尚、今日はお金がなあ、どっさりと儲かりました。之はこれでもな、日本は惣鎮守、伏見御稲荷大明神な、こちらに立たせたまふはな」と云ひつつ、次第にこれを並べて諸稻荷の名に戯れ言等を交へて雄弁にこれを云ふ。三都ともに流布す》『守貞漫稿』
また『街の姿』も次のように書く。
《和尚今日は、「是は是でもナア、嬬恋稲荷が大明神云々」と云いつつ、一文人形といふ土人形を、数々敷居の上に並べて銭を貰ふ乞食にて願人坊主の壱人なり》
(『街の姿』)
敷居の下に泥人形を並べるのは、通行の邪魔になるからである。銭を出すまで何個でも人形を並べるから、根負けするのである。
◎ 半田稲荷 (半田稲荷『吾妻余波』)
《お稲荷さんの御利生、すてきな御利生は戸毎に立ちて銭を乞ふ願人坊主なりき。一枚の板に仕掛けある螺旋を延縮すれば、狐の面も又延縮す。此者、安政の頃迄ありたれど、其後は絶えたるにや来たらず》『街の姿』
《天保中、初めてこれを行ひ、今は廃せり。その扮、京坂の金比羅行人と同じくして、白を紅に換ふるのみ。諸服必ず紅綿。手に紅綿の幟に半田稲荷大明神と筆せるを携へ、右手にれい(鈴)を振り、痘瘡麻疹の軽を祈るに矯げて、専ら諧謔踊躍す》 (『守貞漫稿』)
『街の姿』は、「安政(1854~1860)の頃迄ありたれど」とあるが、上限については書いていない。一方、『守貞漫稿』は、「天保中(1830~1844)、初めてこれを行ひ」と上限を示す。
ところが『武江年表』は 、半田稲荷へ参詣者が多く集まったのは、享保年間(1716~1736)のことと記しており、疱瘡(ほうそう)や麻疹(はしか)が流行った時期と重なる。『『守貞漫稿』が云うより、百年早い。
『武江年表』は更に云う。
《(享保十八年)七月上旬より疫癘(えきれい)(=疫病、流行病、伝染病)天下におこなはる。十三日十四日、大路往来絶えたり。藁にて疫神の形を作り、これを送るとて鉦太鼓を鳴らし、囃しつれて海辺に至る》
この鉦太鼓を鳴らしながら、疫神(藁人形)を送り出したのが半田行人である。
「疱瘡も軽いし麻疹も軽い」
そう唱えながら江戸の街を歩き廻った。
その姿形が評判となり、後には芝居等でも演じられるようになった。麻疹の流行が終わった後は、「ご利生ご利生」と唱えながら、狐の頭を伸ばしたり縮めたりするようになった。
大道芸の会会員募集
「南京玉すだれ」や「がまの膏売り」など、日本庶民の伝統文化「大道芸」を一緒に覚えませんか。練習日は左記の通りです。
●第二七七回目 六月十七日(水(すい))
●第二七八回目 七月十五日(水(すい))
時間・午後七時ー九時
場所・烏山区民センター 大広間(二階)
また、歴史や時代背景を学び、或いは技術を向上させたい人のために、学習会や伝承会も行っています。
●日時 ・場所(随時)
随時HP掲示板(ほーむぺーじけいじばん)等で通知
編集雑記
三月に終了した「江戸の物売りと大道芸」(於深川江戸資料館主催)が、江東区役所ホームページで、見れるようになりました。
僅か二分の放送ですが、覗いてみてください。
(入り方)
①江東区ワイドスクエア
②江東ワイドスクエア 江東区PR動画
③平成27年度
④放送日 3月29日~4月4日
⑤今週の話題(2)江戸の物売りと大道芸((1)の開始から、04分39秒後始まり))
孝 行 糖
元々上方落語であったが、明治期に三代目三遊亭圓馬によって東京落語の演目にもなった。落語の枕に「魚屋」「ふるい屋」「荒金屋=金属回収業」が出て来ることが多い。つまり、最初に魚屋が出て来る。振り声は例えば鰯。(いわし )「いわしこオ、いわしこオ」。すると篩屋(ふるいや)が「ふるいふるい」。その後から荒金屋が、「ふるかねエ、ふるかねエ」。
落語の粗筋(あらすじ)は次の通り。
主人公の若者(上方=大工の吉兵衛、東京=与太郎)は、「親を大変大切にしている」と奉行所から表彰され、褒賞金として「青緡(あおざし) 五貫(文)を下賜された。
青緡とは公儀から下賜される際に用いた紺染の銭緡(ぜにさし)。五貫文は、五千文。銭緡に緡(さし)たままだと、一本九十六文を百文に通用させた。しかし、銭緡から外してバラバラで使用する場合は、96×50=4800文であった。 百文当たり四文は手数料であり、他の通貨である金貨や銀貨と交換する場合に割り切れるようにするためとも云われる。
(当初の公定レート)
金貨一両=(りよう )四分(ぶ)=十六朱(しゆ)=銀貨六十匁=(もんめ )銀六百分(ぶ)=銭貨四貫文=(96×40=3840文)。 扨て、咄を元へ戻す。
報奨金を貰ったことを知った長屋の住人や大家は、若者に何か商売を始めることを勧める。その結果、飴屋を始めることとなり、「孝行糖」と名づけた。
その出で立ちと売り声は左記のようであった。
衣装については、鉦や太鼓を持たせ、派手な衣装を着せた。続いて売り声。衣装に勝るとも劣らない派手な言い立てであった。
「孝行糖、孝行糖。孝行糖の本来は、うるの小米(こごめ)に寒(かん)晒(ざら)し。カヤに銀杏(ぎんなん)、肉桂(につき)に丁(ちよう)字(じ)。チャンチキチ、スケテンテン。昔々唐土(もろこし)の、二十四孝のその中で、老莱子(ろうらいし)といえる人。親を大事にしようとて、こしらえあげたる孝行糖。食べてみな、おいしいよ、また売れたったらうれしいね。テンテレツク、スッテンテン」
飴は売れに売れて商売繁盛となる。が、好事魔多しの例令通り、葬儀が行われている蔵屋敷(上方)や武家屋敷門前(東京)で、「静かに静かに」と云われても賑やかにやったものだから袋だたきにされてしまった。
そこへ偶々知り合いが通りかかったため助けられ、「何処を殴られたか」と聞かれ、
「こオこオとオ(ここと)、こオこオとオ(ここと)」
如何にも落語らしいサゲである。実際の孝行糖売りは上図のようであった。
雨も降らぬに「孝行糖」と筆太に書いた大きな傘を差し、 飴を入れた挟箱を(はさみばこ )担って振り声を言い立てているのであろう。
なお『街の姿』の説明は次のように書く。
《孝行糖は、図の如き風俗したるもの七八人。若くわ(は)十人位ひ一連となりて
「昔し々々もろこしで、孟宗といふ人は、親に孝行しようとて、つくり始めし孝行糖云々」。安政(1854~1860)のはじめに流行す》
◎掃込婆(はきこみばばあ)
《一本の竹箒の先に、小判を数十結び付け、
「さっさ掃き込み掃き込み、どんどん掃き込み、大判小判を一度に掃き込み、さっさ掃き込み掃き込み」》 (『街の姿』)
小判を沢山付けた竹箒で掃き混むのはゴミではないぞ。福だから、おおいに掃き込みましょうと云う訳である。それが嫌なら○を出せ。と云うことなのだろう。
『守貞漫稿』が載せる「掃除」と真逆の発想である。同書は次のように書く。
《(掃除は)三都にあり。竹箒を持って戸前を掃くといえども魏勃(人名=詳細は『江戸の大道芸人』にあり)を倣うにあらず。「庄介しよ、掃除をしよ、朝から晩まで掃除をしよしよ」と呼ばわり銭を乞う》
つまり、掃除をしてやるから銭を出せ、と云っているのである。出さなければ、当然店の中へごみを掃き込む。
方や「掃き込みを止めて欲しければ銭を出せ」であり、もう一方は、
「掃除を止めて欲しければ銭を出せ」である。「掃込婆」が先に来て掃き込んだゴミを、「庄介しょう」が後から来れば恰度いい。しかし、逆だったら二重被害である。
同時に来て、店前で順位を巡って喧嘩になったらどうするか。咄としては面白いが、実際にこんなのが現れたら迷惑千万である。それでも許せたのだから、江戸に限らず昔の人は度量が大きい。
『街の姿』も挿絵と共に紹介している。
《天保八九年(1837~1838)の頃、正助せふといふ乞食、一本の竹箒を持ち、朝早く戸毎、彼の箒にて門を掃きながら、「正助せふ。そうじをせふ。
掃除が済んだら一番せふ、と極めていやみなる言(いい)ぶりなり。殊に此の者は目尻下がり、はけ先を長くし、一見歯の浮きそうなる風体なりしとぞ》 なお、同人自筆の『加賀本』の解説は若干異なる。
《正助せふ、掃除をせふ。綺麗にせふ。掃除が済んだら一番せふ。正助といふ物貰は嘉永(1848~1854)頃最も名高し。毎朝早く竹箒を携へ来たり、前記の如きことを、極めてきざなる言にて喋々し、畢りて箒をかつぎて、一番せふといふが如きは、実に胸の悪くなるほど気ざなりしとぞ》
案外人気があったようだ。
◎安 珍(あんちん)
《「あの安珍めが人をだまし。し(日)高川を鬼に成りても、この臼で搗(つ)いて搗いて搗き抜いて。重い杵(きね)とはどうよくな」天保十二三年の頃、此の乞食、安珍とて名高し》『街の姿』
実際の安珍清姫物語は、安珍に裏切られた?清姫が蛇になって安珍を追いかけ、鐘の
中に隠れた安珍を鐘諸共蒸し焼きにすると云うものである。それでも十分残酷なのに臼で搗いて搗いて肉団子にしようというのだから恐れ入る。かちかち山の話で、婆さんを欺した狸が、狸汁ならぬ婆汁をこしらえ、爺さんに喰わせた咄を思い出す。『水滸伝』には、敗者を喰う話が沢山出て来るが、日本も人を喰う習慣があったのだろう。
◎ 三井寺へ行ふ
《大きなる張子のつり鐘を背負、紙にて作りし鎧を着し、弁慶の法師姿にぎ(擬)して戸毎に立て、三井寺へ行(ゆか)ふ。ごん……といふて、銭を貰ふ乞食也》 (絵文共『街の姿』)
これは弁慶の引き摺り鐘伝説を受けてのものである。弁慶の引き摺り鐘伝説は次のようなものである。
三井寺(園城寺・寺門派)初代の梵鐘は、承平年間(931~938)に田原藤太秀郷が三上山の百足(むかで)退治のお礼として 琵琶湖の龍神より貰ったと伝わる。その後、延暦寺(山門派)と争いの際、弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げた。
その鐘を撞いてみると、
「いのう(帰ろう)いのう(帰ろう)」と響いた。それを聞いた弁慶は、
「そんなに三井寺へいにたいか!」と怒り、鐘を谷底へ投げ捨ててしまった。今も、その時に出来た傷痕や破目などが鐘に残っている。
◎ 和尚今日(おしようきよう) (和尚今日『吾妻余波』)
『守貞漫稿』は次のように書く。
《天保頃、乞食童、小さき土偶数品を袂に(たもと )入れ、毎戸敷居上にこれを並べ、初め一土偶を置く時、
「和尚、今日はお金がなあ、どっさりと儲かりました。之はこれでもな、日本は惣鎮守、伏見御稲荷大明神な、こちらに立たせたまふはな」と云ひつつ、次第にこれを並べて諸稻荷の名に戯れ言等を交へて雄弁にこれを云ふ。三都ともに流布す》『守貞漫稿』
また『街の姿』も次のように書く。
《和尚今日は、「是は是でもナア、嬬恋稲荷が大明神云々」と云いつつ、一文人形といふ土人形を、数々敷居の上に並べて銭を貰ふ乞食にて願人坊主の壱人なり》
(『街の姿』)
敷居の下に泥人形を並べるのは、通行の邪魔になるからである。銭を出すまで何個でも人形を並べるから、根負けするのである。
◎ 半田稲荷 (半田稲荷『吾妻余波』)
《お稲荷さんの御利生、すてきな御利生は戸毎に立ちて銭を乞ふ願人坊主なりき。一枚の板に仕掛けある螺旋を延縮すれば、狐の面も又延縮す。此者、安政の頃迄ありたれど、其後は絶えたるにや来たらず》『街の姿』
《天保中、初めてこれを行ひ、今は廃せり。その扮、京坂の金比羅行人と同じくして、白を紅に換ふるのみ。諸服必ず紅綿。手に紅綿の幟に半田稲荷大明神と筆せるを携へ、右手にれい(鈴)を振り、痘瘡麻疹の軽を祈るに矯げて、専ら諧謔踊躍す》 (『守貞漫稿』)
『街の姿』は、「安政(1854~1860)の頃迄ありたれど」とあるが、上限については書いていない。一方、『守貞漫稿』は、「天保中(1830~1844)、初めてこれを行ひ」と上限を示す。
ところが『武江年表』は 、半田稲荷へ参詣者が多く集まったのは、享保年間(1716~1736)のことと記しており、疱瘡(ほうそう)や麻疹(はしか)が流行った時期と重なる。『『守貞漫稿』が云うより、百年早い。
『武江年表』は更に云う。
《(享保十八年)七月上旬より疫癘(えきれい)(=疫病、流行病、伝染病)天下におこなはる。十三日十四日、大路往来絶えたり。藁にて疫神の形を作り、これを送るとて鉦太鼓を鳴らし、囃しつれて海辺に至る》
この鉦太鼓を鳴らしながら、疫神(藁人形)を送り出したのが半田行人である。
「疱瘡も軽いし麻疹も軽い」
そう唱えながら江戸の街を歩き廻った。
その姿形が評判となり、後には芝居等でも演じられるようになった。麻疹の流行が終わった後は、「ご利生ご利生」と唱えながら、狐の頭を伸ばしたり縮めたりするようになった。
大道芸の会会員募集
「南京玉すだれ」や「がまの膏売り」など、日本庶民の伝統文化「大道芸」を一緒に覚えませんか。練習日は左記の通りです。
●第二七七回目 六月十七日(水(すい))
●第二七八回目 七月十五日(水(すい))
時間・午後七時ー九時
場所・烏山区民センター 大広間(二階)
また、歴史や時代背景を学び、或いは技術を向上させたい人のために、学習会や伝承会も行っています。
●日時 ・場所(随時)
随時HP掲示板(ほーむぺーじけいじばん)等で通知
編集雑記
三月に終了した「江戸の物売りと大道芸」(於深川江戸資料館主催)が、江東区役所ホームページで、見れるようになりました。
僅か二分の放送ですが、覗いてみてください。
(入り方)
①江東区ワイドスクエア
②江東ワイドスクエア 江東区PR動画
③平成27年度
④放送日 3月29日~4月4日
⑤今週の話題(2)江戸の物売りと大道芸((1)の開始から、04分39秒後始まり))