ガマの油は何時から筑波山になったか     光田憲雄

 今、大道芸といえば、ガマの油。ガマの油といえば筑波山と、相場は決まっている。それが証拠にガマ公園へ行くと『ガマ口上発祥の地』の石碑が建っているし、何代目かを称する永井兵助(ながいひょうすけ)も健在だ。疑う余地はない。
永井兵助といえば松井源水(まついげんすい)と並んで、藩政時代には江戸を代表する香具師(やし)であった。
松井源水が独楽(こま)を回せばば、永井兵助は三方(さんぼう)を積み重ねた上に立っての居合い抜きで人を集めた。共に歯磨きを売り、歯の治療をした。しかしながら、ガマの油を売った形跡はその頃にはない。
それはともかく、その頃どんな口上を喋ったかは不明だが、今のガマ口上とは違うであろうぐらいの察しはつく。
何故というに、現在のガマの油売りの口上をよく聞いてみると、筑波山を除けば、出てくる地名はすべて関西ばかりだからである。
知らない人のために冒頭の一節を陳べる。
「手前ここに取り出しましたる棗(なつめ)の中に、一寸八分唐子(からこ)ぜんまい仕掛けの人形が仕込んである。
日本には、人形の細工人数多(あまた)ありといえども、京都にては守随(しゅずい)大阪にては竹田縫之助(たけだぬいのすけ)近江大掾(おうみのだいじょう)藤原朝臣(ふじわらのあそん)。
手前のは竹田近江が津守細工(つもりざいく)。喉には(以下略)」
関西ではなく日本にはと、大風呂敷を拡げたのだから、一つぐらいは関東の地名が入っていても、おかしくない場面である。
ところが全く出てこないまま、いきなり
「常陸の国は関東の霊山、筑波山で取れた四六のガマだ云々」
となるから、話がややこしくなる。
尤も、実際にはゴロの良さにつられて聞き流しているから気がつかないけれど、いかにも唐突である。
それでもここから舞台が関東へ転換するのならまだ話がわかる。
だが、ガマの油を「とろーりとろりと煮炊きしめ」る場面になると再び、
「京都は鴨川のほとりに生えている柳の小枝を一尺二寸に切りそろえた物を燃料といたし」たりするからおかしくなる。
筑波山だろうが京都だろうが、燃やした柳の火加減に違いがあろうとは思えない。まして一尺二寸に切りそろえる必然性など、どこにもない。
更に有名な、
「一枚が二枚、二枚が四枚、四枚が八枚・・・六十四枚が一束と二十八枚。上へと吹き上げれば、比良の暮雪か嵐山は落花の舞」
にしても、飛鳥山の桜でも、上野の暮雪でも一向に構わない。寧ろその方が関東では馴染みがあっただろう。
そういえば上野の山は、東(の比)叡山であり、不忍の池は琵琶湖である。
琵琶湖を見下ろしているのは三井寺の方がふさわしいとは思うが、不忍池(琵琶湖)に面して清水(寺)観音堂の舞台まである。
最後の場面「清水の舞台から飛び降りた積もりの破格のお値段」にしても、上野でいい。
もしそれがおかしいなら、筑波山自体に疑問を持つ事も許されるだろう。
或いは筑波山のガマの油は、どこかからか移されたと考えていい。
京都、大坂、滋賀。筑波山を除けば、この三つの府県がガマの油の舞台である。
この中から筑波山に該当する山といえば、伊吹山(いぶきやま)に限られる。
現在は全く忘れられているが、この山はかつて修験道の山であった(註)し、今でも伊吹百草(いぶきもぐさ)で世に知られている。

註・「此頃より橘町裏栄国寺へ伊吹山の行者幡隆上人来り参詣群衆す」(『名陽見聞図会』   天保三年九月十八日)

私は香具師の起源は修験者だと考えている。一言でいうのは難しいけれど、近年まで香具師の売っていた物はすべて薬であった。何故薬かというと、持ち運びが簡単で商品価値が高いからである。修験者なら薬草にも詳しいから調達も楽、その上祈祷もできる。此の祈祷を形にした物が護符であり、お守りである。
だから「神霊護符売り」や「釜仙人」のようにお札(ふだ)を売るのが、一番旧い形。続いて、祈祷の効果を形にあらわした「薬草売り」となる。
 現在も薬屋の神である「神農(しんのう)」は同時に香具師の神でもある。また香具師を素直に読めばヤクシ(〓薬師)となるように元来薬売りなのである。
ガマの油売りも「ガマの油」という薬を売るのが目的であるが、筑波山にガマの油以外の薬がないのも不思議である。それとも、ガマの油が余りに有名になりすぎたから、外の物が消えたということもあり得る。
 手がかりを求めて、茨城県関係の本を二三めくってみた。その結果、驚いたことに正史にはガマの油は載っていないことを確認した。
 それでやむを得ず、ガイドブックをめくってみたら、こちらには沢山載っていた。
ただし、この種の本の常として事実と伝承思い入れの別がはっきりしない事である。だから本によって書かれてある内容が微妙に異なる。
 それでもなんとか各本の内容を纏めたら大体次のような話になった。
「新治郡新治村永井地区に住んでいた兵助が、筑波山中に籠もって修行中、ガマ口上を考案し、江戸へ出て、ガマの油を売り広めた」と。
一方、当時の風俗辞典『守貞漫稿』も「矢師(やし〓香具師)」の項に、
《商人一種の名。製薬を売るは専ら此党とする由なれども此の党に非るもあり。
此小売の内種々あり。路上の商人多し。歯ぬきも此一種也。大坂の松井喜三郎、江戸は長(〓永)井兵助、玄(〓源)水等最名あり。喜三郎と兵助は人集めに、三方等を積塁ね、其上に立て大太刀を抜き或は居合の学びをなし、玄水は独楽をまわして人を集め、歯磨粉及歯薬を売り、又歯療入歯もなす也》と記しているから長(永)井兵助が実在していたことは間違いない。
或いは時代は下って文明開化の明治三十四年に刊行された『東京風俗志』(平出鏗二郎)も次のように記す。
《世に居合抜(いあひぬき)とて、永井兵助、松井源水の流れを汲み、丈なる刀を容易く抜き放ち其手練を誇り、さて人の齲歯(むしば)を抜き、歯磨、金創膏などを売る野師(やし)あり。是れ歯を抜くといふを、刃を抜くに思ひ寄せたるなるべしとの説あれど、そは兎に角に客よせの為めにするなるべければ、また其技こそかんばしんともいふべけれ。今も浅草公園を始め神仏の縁日の夕などにはこれを見るなり》と。
ずいぶん長い間活躍していたようだが、ここに出てくる永井兵助が、筑波山でガマ口上を考案した人物と同じかどうかはまだわからない。今でもガマの油といえば、大道芸を代表する演目の一つである。歯磨きや歯抜きばかりする事はあるまい。
現在、筑波山の近くに「筑波山ガマ口上保存会」という会がある。そこの代表に電話をかけてみた。その結果わかった事は、永井村に兵助(ひょうすけ)ではなく平助(へいすけ)という人がいたまでは確認したが、それ以上はわからないとの話であった。
兵助と平助。ともに「へいすけ」と読めるから、漢字だけならどちらかが当て字であるという事は可能だが、兵助はどの本にも「ひょうすけ」と仮名が振ってある。これも別人とした方が良さそうである。
それだけではない。未だにガマ口上が筑波山で発祥した証が出てこないのである。やはり余所から持って来たのではなかろうか。
それ以前に「ガマの油売り」は本当に存在していたのだろうか。そちらの詮索もすべきではなかろうか、という気がしだした。
ガマの油売りの存在は『江戸行商百姿』(三樹書房)中にすぐ見つける事が出来た。但しその風袋は、私たちが思い描いているものとは大分異なる。それが左に紹介する「がまのめうやく(妙薬)」売りの図」である。
 これは文化六年(一八〇九)刊行の『復仇蝦蟇之妙薬』最終丁二十五丁裏に掲載されているという。
内容は、ガマの油から膏薬を製剤していた男が殺されたので、子供が仇を討つという話のようであるが、絵中の文字は次の様に読む。
《たのきち(人名)がせい(製)するひきのあぶらくすり(蟇の油薬)きめう(奇妙)なりとて、これをこい(乞い)う(受)くるものおびただしければ、たのきちせやく(施薬)とすりに、ついゑ(費え)おほ(多)くなんじう(難渋)のよし、もくだい(目代)きこしめされ(聞こし召され)しょにん(諸人)たす(助)けのためなればとて、やくしゅのあたひ(薬種の値)をくだしおかれけるゆへ、
たのきちとの(殿)の仁心をかんじて、ひろくこれをほどこしける。今もするがのくにわらしな(駿河国藁科)に、そのめうやくのこ(妙薬残)されりとぞ。まことにここん(古今)のさくせつなり》  ここに出てくるガマの妙薬が駿河の国(静岡県)であるのは、著者十返舎一九の郷里(駿河府中)に近いからだろうと『江戸行商百姿』の著者は云っている。
その上で、《一九の幼児の見聞か、或いは東海道膝栗毛の取材中に、耳に入れたネタかもしれない》と、わざわざ断ってもいる。
刀を振り回しながら口上を言い立てる、ガマの油売りに比し、余りにおとなしそうだからであろう。
しかし、そう言い切る為には、刀を振り回すガマの油売りがあった事を前提にしてる。 今、大道芸の話をすると、大抵「ジャグリング」かと聞かれる。それ程洋物に押された日本の大道芸だが、「いや、ガマの油です」と答えると、まだ通じる。落語の影響もあるのだろうが、日本の大道芸イクオールガマの油みたいな公式が出来ている。
刀で腕を切るなど、強烈な印象を与えるからであろう。もし本当にいたのなら、どこかに痕跡が残っているはずである。そう思って探してみたが、今のところ見つからない。
反面、ルーツは筑波山ではない事の確信はいよいよはっきりした。
たとえば、室町京之助の『香具師口上集』(創拓社)百七十八ページに掲載の「ガマの油売り」の冒頭に次のように記す。
《さて、香具師の口上といえば、ご存じガマの油売り。落語でも有名な「がまの膏(あぶら)」で、ことにこの間彦六になって死んじゃった林家正蔵のこれや「弘法の石芋」は絶品だよ。本来これは関西が発祥の地だから、伊吹山が本当だ。落語になって関東に来てから、筑波山になったものだ。正調伊吹山の坂野のガマの油と、落語のガマの油を紹介しましょう。まずは坂野のガマの油。》
ここに云う坂野は、坂野比呂志の事。明治四十四年(一九〇六)東京深川生まれ。浅草を拠点に、大道芸や物売り口上を舞台で演じる。昭和五十七年(一九八二)大道芸口上を舞台で演じ、芸術祭大賞を受賞。平成元年(一九八九)没。
著者の室町は、明治三十九年(一九〇六)東京神田生まれ。共にチャキチャキの江戸っ子を任じていた。その二人が、共に伊吹山だというのだからこれは確かであろう。
そこで今度は、伊吹山の方を調べてみた。 町役場に手紙を書いたら、『伊吹町史 文化民俗編』のコピーが同封されてきた。曰く。《いぶき山ガマの油・伊吹山のガマの油の伝承がいつの頃から生まれたものか、薬用としての利用がどのようにして生まれたのかは不明ですが、関東筑波山の中禅寺の僧光誉上人が蝦蟇将軍と呼ばれ、大坂夏の陣、冬の陣に傷兵を介抱したとされることから世に知られるようになったのは江戸時代以降ということになりましょう。蝦蟇の油の元であるセンソは奈良時代に中国から渡来し正倉院御物の中にも医薬としてある生薬といわれますから、古くからの薬であったことは事実ですが、伊吹山での精製については全く伝承がありません。しかし雪解けの頃の山頂湿原付近では無数のガマが出没するところから、修験道の発達と共になんらかの利用があったのかもしれません。
彦根鳥居本の赤玉神教丸の本舗では伊吹のガマの油から六神丸を精製したことが伝えられていますからこれはほぼ誤りのない事実だろうと思われます。今日の製薬は中国から輸入するセンソや、その他の生薬によっているとされていますが、講談師や香具師によって語られるガマの油の一節は必ずしも無謀な表現であると一笑に付すわけにはまいりませんガマは毒を出すと一般には言い伝えられていますが町内では薬用とした例がありません。 ガマの耳の後の分泌線から噴出する分泌液は、その少量でも目に入ればただちに失明するという猛毒成分で劇薬の一つとされています。ガマの油の採集時期は六ー八月頃で、それを固形にするのに一〇日前後を要するとのことです。今日では中国河北・山東省の各地で生産されています。》
こもまた、願望はあるものの、発祥の地とはいえないようである。
 そこで今度は落語を調べてみる事にした。はじめに上方落語。これは前座話である「東の旅」の中にあるから、なかなか高座にはかからないとの事であったが、幸い『桂米朝全集』の中に見つける事が出来た。
細かい部分は兎も角、全体としては大道芸と全く同じであった。
 間違いない。ガマの油売りのルーツは上方落語であると確信した。そうであるからこそ、「ガマの油売り」は何処にも痕跡が残らなかったのである。
ではこれが関東へ来たのはいつ頃であろうか。こちらは『昭和戦前傑作落語全集』の中に「雑誌『富士』昭和九年七月号に掲載された、三代目春風亭柳好の実演速記」が載っていた。つまり三代目柳好が、伊吹山を筑波山へ言い換えた最初の人である。従って大道芸「ガマの油売り」が筑波山になったのもこれ以降の事である。
或いはつい最近、『浅草人情地図』(昭和五十三年ブックマン社発行)という本を見つけた。大正七年浅草生まれの著者・大森亮潮氏のいわば思い出話集である。
 この中に「大道芸人」の項があり、いろいろな大道芸人が出てくる。その中に、永井兵助の流れを汲むのだろう「歯痛止めの薬売り」なども出てくるが、「ガマの油売り」のことは一行も書かれてはいない。
 此の一事を以て存在を否定するわけにはいかないが、益々疑わしくなったことは確かである。しかし、何れにしろ、ガマの油売り口上が筑波山になったのは、昭和以降であるに間違いない。

(参考)ガマの油売り口上
 さあてお立ち会い。
 ご用とお急ぎでない方がいらっしゃいましたら、ゆっくりと聞いておいで見ておいで。 遠目山越傘の内、聞かざる時は物のあやめりと理方が、相わからぬという。
 山寺の鐘、ゴウゴウと鳴ると雖も、童子来たりて鐘に撞木を当てざれば、鐘が鳴るやら撞木が鳴るやら、とんとその音色がわからない。
だアがお立ち会い。
 手前ここに取りィ出しましたる棗(なつめ)の中に、一寸八分唐子ぜんまい仕掛けの人形が仕込んである。
 日本には、人形の細工人数多ありといえども京都にては守随、大坂にては竹田縫之助近江大掾藤原朝臣。
手前のは、竹田近江が津守(つもり)細工喉(のんど)には八枚のコハゼを仕掛け、背中には十二枚の車を仕掛け、此の棗大道に据え置く時は、天の光地の湿りを受けて陰陽相和合し、棗の蓋、ぱっと取る時は、つかつかと歩むが虎の子走り駒返し、孔雀雷鳥の舞に至るまで十と二通りの芸当をなす。
 だアがお立ち会い。
人形の芸当如何に見事と雖も、投げ銭放り銭はおよしなさい。
 手前大道に未熟な渡世を送ると雖も天下の町人。泥の付いた銭をばたばたと拾い集めるようなみっともない真似はようしない。
然からば、何を持って生業(なりわい)となすかといえば、・・・。
これだ、陣中膏は四六のガマ。
こういうと、そんなガマなら俺の家の縁の下や流しの下、国へ帰れば田圃の中へも沢山いるという御仁がおられるが・・・。
冗談じゃない。あんな物はお玉蛙ひき蛙というて、何ら薬石効能はない。
手前のは江州は伊吹山(常陸の国は関東の霊山、筑波山)で取れた四六のガマじゃ。
四六五六は何処でわかるかちゅうたら、前足の指の数が四本、後足が六本。これを名付けてヒキセンソウは四六のガマ。
また一年の内、五月八月十月に捕れるところから、一名五八十(ゴハッソウ)は四六のガマともいう。
じゃあ、此の蝦蟇から油を取るにはどうするかちゅうたら。
伊吹山(筑波山)は麓の住民、山へと登る。木の根、草の根踏み分けて、オンバコという露草を喰らい育ったガマをば。
四角四面は鏡張り、下金網を張った箱の中へと追い込む。
小心者のガマは、鏡に映った己が醜い姿に驚いて、流す油の汗がタラーリタラリ。
これをば金網の下より取り出して、赤いシンシャに椰子(やしゅうの)油、テレメンテイカメンテイカという唐、天竺、南蛮渡来の妙薬と、練り合わせ練り固めた物が、ガマの油だ。
じゃあ、此の油いったい何の役に立つ?
尾籠なお話で恐縮でございますが、コウモンの病だ。
 コウモンたって水戸黄門じゃない。
出痔疣痔痔瘻脱肛鶏冠痔、そのほか横根雁瘡揚梅瘡。何にでも効く。
まだある。刃物の切れ味を止める。
ここに取り出したるは、粗末ながら家伝の品。先が切れて元が切れない、中刃が切れないなどということはない。
エーイッ。抜けば玉散る氷の刃、ツランテントン玉と散る。刃こぼれない、錆一つない。鈍刀鈍物とは訳が違う。
ただいまより、切れ味試してご覧に入れる。ここに取り出した一枚の半紙、これをば切ってご覧に入れる。
一枚が二枚、二枚が四枚、四枚が・・・、六十四枚が、一束と二十八枚。上へと吹き上げれば、比良の暮雪か嵐山は落花の舞。
これ程切れる名刀でも、差し裏差し表へガマの油一塗りすれば、・・・。
 押して切れない、引いて切れない、叩いても切れない、絶対に切れない。
 だが此の油ぬぐい去るときはどうなる?
 刃物の切れ味再び戻り、鉄の一寸板をもまっぷたつ。手前の二の腕にちょいと当てただけでも。
 ほれっ、この通り、血が出る。
だアが心配ご無用。此のガマの油一塗りすれば、三つ数える間に、血はぴたーっと止まる。これ血止めの妙薬じゃ。
じゃあ此の薬一体幾らする?
普段なら決して値引きはしないのだが、本日ははるばる出張っての宣伝中。家庭の常備薬へ持って帰りたいという方があったら、清水の舞台から飛び降りたつもりの破格のお値段。五百文のところ僅かに三百文にてお分けする。 さあ、どうじゃ。

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