「南京玉すだれ」発生と名称変遷史 光田 憲雄
日本の大道芸を知らない人でも、 「がまの油売り」と「バナナの叩き売り」と「南京玉すだれ」なら、大抵知っている。少なくとも名前ぐらいは聞いたことがある人は多い。
しかし、それがいつ頃始まったかについては、演じている人でも知っている人は少ない。とりわけ「南京玉すだれ」は、まことしやかな虚説がはびこっているのが実情だ。そこで、少しでも間違いを正すべく、「玉すだれ」が描かれてある資料(=どう呼んでいたのか不明のものでも、一見して「玉すだれ」と同じものであると判断したものだけを記した)を年代順に記すので、皆さん自身でお考え下さい。
年号(元号/西暦) 名 前 掲載誌等
・寛政12年(1800) 未詳(無名) 『文鳳麁画』(文鳳駿声画)
・文化10年(1813) 未詳(無名) 『金の草鞋』(十返舎一九著)
・文政 8年(1825) くだすだれ 『近江表座敷八景』(柳亭種彦撰、歌川国定画)
・天保 4年(1833) すだれつかい 『若山城下物貰風俗』(著者未詳)
・文政〈1818~1830〉~幕末〈~1868〉
唐人阿蘭陀南京無双玉すだれ
『諸芸口上集』 (著者未詳) …………… (註1)
・明治29年(1896) 手遊び売り 『風俗画報』(著者未詳)
・明治38年(1905) 編み竹 『筑子の起原考』(高桑敬親著) ………… (註2)
・~大正2年(1913) 竹からくり 『江戸明治 世渡風俗図絵』(清水清風著)
・昭和41年頃(1966頃) すだれ状道具? (フジテレビ「しろうと寄席」)
(ここで、玉すだれが紹介された際、審査員も含め誰も知らな かったと云う)
・~ 昭和45年(1970) 手遊び 『江戸庶民街芸風俗誌』
(宮尾しげを・木村仙秀著)
・昭和51年(1976) 唐人阿蘭陀南京無双玉すだれ
『諸芸口上集』 ………………………(註3)
・昭和54年(1979) らう(羅宇)の曲芸 『江戸行商百姿』(花咲一男)
・~昭和59年(1984) 南京玉すだれ(寄席芸に限定)
『江戸暦渡世絵姿』(今村恒美)
・~ 現在まで 南京玉すだれ (世間一般)
(註1)『諸芸口上集』は、文政〈1818~〉から幕末〈~1868〉にかけて書かれたものであると、同書の所蔵者であり、はじめて世間に紹介した 肥田晧三が述べている。(『日本庶民文化史料集成』 第8巻 寄席・見世物〈改題校注 肥田晧三・三一書房〉)
この中に「唐人阿蘭陀南京無双玉すだれ」 と云う言葉が出てくる故、これこそ「南京玉すだれ」の語源であり根拠であると、世間に言いふらした問題の書である。
但し、『諸芸口上集』が書かれたとされる文政以前はもちろん、幕末以降になっても、この書が紹介された昭和50年代まで、170年以上もの長きに渡って、「南京玉すだれ」と云う言葉はこの書以外には、一度も使われていないのである。そうは思うが、今は 肥田晧三の云う年代のままに置く。
(註2)「玉すだれのルーツ五箇山説」の根拠となった書
(註3)偽書は発見された時が書かれた時である。(注1)に記した『諸芸口上集』(『日本庶民文化史料集成 第8巻 寄席・見世物』(1976年刊)に収録)が実際に書かれたのは、この頃と考えて間違いない。著者は未詳だが編者肥田晧三自身か?
全くの余談だが、世間を騒がせた天下の偽書『東日流外三郡史』が、某家の天井裏から出てきたとされるのも、この年(1976年)であることも面白い。
ところで、最近「玉すだれ」のルーツは越中(富山)五箇山の「編竹(あみだけ)」である。とする説がまことしやかに流されている。その根拠となったのが、『筑子(こきりこ)の起源考(高桑敬親著)』(富山県・山崎英一発行)であるが、これもまたなんとも不思議な本である。何度読んでもよくわからないし、何が云いたいのかも私には全く理解できない。
そうは思うが、『玉すだれ』のルーツ説の根拠とされる大事な本である。
「玉すだれ」のルーツとされる部分(E.編竹(ササラ、俗に編み竹)」)を原文のまま紹介するので、解説して貰いたい。
《E.編竹(ササラ、俗に編み竹)
イ.色葉字類抄の鎌倉初期には筑と編木とを共にササラとよまして、二種類しか列挙して ないが、蓋 抄の文安三年(一四四六)には(編竹、編木、筑子)の三種類を挙げて いる。五ヶ山ではこれを(編み竹)と称して来たが、文安三年の室町中期にはササラと 訓ましている。》
これに続く(ロ)と(ハ)の文章は、編竹の作り方と使い方の説明だが、挿し絵もはいって、別人が書いたと思えるほど、非常にわかりやすい。しかし、玉すだれのルーツとは全く関係がないので今は省略する。
また(ニ)は、明治三十八年(一九〇五)日露戦勝祝いに演じた老翁から採集した語り文句(歌詞)が翻刻してあって貴重である。原文のまま記す。
《アー 雨が晴れたか虹橋かかる。このま虹にはサテ色がない。
アー 小野の東風の枝垂れの柳、落ちたドンビク亦とびつきやる。
アー 鯛は鯛でも身(肉)のない鯛ぢゃ、猫に食われてガラ骨ばかり。
アー 信州信濃の善光寺様ぢゃ、中に阿弥陀が坐らんばかり。
ホ.演技の初めにも、仰向ける様に四角の旧形に復するにも突く、撞き揃えるから、或は平 安時代から編竹はあったかも知れない。》
さて、この文章の解釈だが、(イ)は、
「鎌倉時代には二種類しかなかったササラも室町時代には三種類になった。五ヶ山ではこれを編み竹と呼んでいた」
という事か?
(ニ)の語り文句のうち、三番目が気になる。何故と言うに、五箇山は元来交通不便な場所にある。海の魚など滅多に見る事もできないほど山奥であるのに、最高級魚の鯛をそれも骨ではなく身を猫に食わせる(猫が骨を食い残すのも不思議な話だが)事が出来るとは、よほど豊かであったのだろうか。それとも新しい時代の息吹なのか。
最後の(ホ)が、またとんでもなく難しい。演技をしたり元へ戻したりする(と言う意味だろうと解釈した)ことと、平安時代からあったかも知れないという説明の間に、大事なものが抜けているのではという気がしてしょうがない。
編竹に関する説明(ロ、ハ、ニ)は、具体的でわかりやすいのに、歴史的な部分(イ、ホ)になると、何故かわからなくなるから不思議である。いずれにしろ、この全文を読んではっきりする事は、明治三十八年には「編み竹」が、存在していたと言う事だけである。
私は次のように考える。
1.羅宇屋(煙管のすげ替えを職業とする人)が、客寄せの手段とした。(=香具師)
すだれの竹は羅宇竹を利用。
2.乞胸(乞食)が人前で演じて投げ銭を乞う。(=乞胸)
3.すだれ自体を売る小商売として復活。(約六〇年ぶり)(=香具師または行商人)
すだれの竹は羅宇竹製。
4.すだれ状道具~南京玉すだれとして復活(約六〇年ぶり)(=寄席)
5.大道芸を代表する演目に成長。
しかし、それがいつ頃始まったかについては、演じている人でも知っている人は少ない。とりわけ「南京玉すだれ」は、まことしやかな虚説がはびこっているのが実情だ。そこで、少しでも間違いを正すべく、「玉すだれ」が描かれてある資料(=どう呼んでいたのか不明のものでも、一見して「玉すだれ」と同じものであると判断したものだけを記した)を年代順に記すので、皆さん自身でお考え下さい。
年号(元号/西暦) 名 前 掲載誌等
・寛政12年(1800) 未詳(無名) 『文鳳麁画』(文鳳駿声画)
・文化10年(1813) 未詳(無名) 『金の草鞋』(十返舎一九著)
・文政 8年(1825) くだすだれ 『近江表座敷八景』(柳亭種彦撰、歌川国定画)
・天保 4年(1833) すだれつかい 『若山城下物貰風俗』(著者未詳)
・文政〈1818~1830〉~幕末〈~1868〉
唐人阿蘭陀南京無双玉すだれ
『諸芸口上集』 (著者未詳) …………… (註1)
・明治29年(1896) 手遊び売り 『風俗画報』(著者未詳)
・明治38年(1905) 編み竹 『筑子の起原考』(高桑敬親著) ………… (註2)
・~大正2年(1913) 竹からくり 『江戸明治 世渡風俗図絵』(清水清風著)
・昭和41年頃(1966頃) すだれ状道具? (フジテレビ「しろうと寄席」)
(ここで、玉すだれが紹介された際、審査員も含め誰も知らな かったと云う)
・~ 昭和45年(1970) 手遊び 『江戸庶民街芸風俗誌』
(宮尾しげを・木村仙秀著)
・昭和51年(1976) 唐人阿蘭陀南京無双玉すだれ
『諸芸口上集』 ………………………(註3)
・昭和54年(1979) らう(羅宇)の曲芸 『江戸行商百姿』(花咲一男)
・~昭和59年(1984) 南京玉すだれ(寄席芸に限定)
『江戸暦渡世絵姿』(今村恒美)
・~ 現在まで 南京玉すだれ (世間一般)
(註1)『諸芸口上集』は、文政〈1818~〉から幕末〈~1868〉にかけて書かれたものであると、同書の所蔵者であり、はじめて世間に紹介した 肥田晧三が述べている。(『日本庶民文化史料集成』 第8巻 寄席・見世物〈改題校注 肥田晧三・三一書房〉)
この中に「唐人阿蘭陀南京無双玉すだれ」 と云う言葉が出てくる故、これこそ「南京玉すだれ」の語源であり根拠であると、世間に言いふらした問題の書である。
但し、『諸芸口上集』が書かれたとされる文政以前はもちろん、幕末以降になっても、この書が紹介された昭和50年代まで、170年以上もの長きに渡って、「南京玉すだれ」と云う言葉はこの書以外には、一度も使われていないのである。そうは思うが、今は 肥田晧三の云う年代のままに置く。
(註2)「玉すだれのルーツ五箇山説」の根拠となった書
(註3)偽書は発見された時が書かれた時である。(注1)に記した『諸芸口上集』(『日本庶民文化史料集成 第8巻 寄席・見世物』(1976年刊)に収録)が実際に書かれたのは、この頃と考えて間違いない。著者は未詳だが編者肥田晧三自身か?
全くの余談だが、世間を騒がせた天下の偽書『東日流外三郡史』が、某家の天井裏から出てきたとされるのも、この年(1976年)であることも面白い。
ところで、最近「玉すだれ」のルーツは越中(富山)五箇山の「編竹(あみだけ)」である。とする説がまことしやかに流されている。その根拠となったのが、『筑子(こきりこ)の起源考(高桑敬親著)』(富山県・山崎英一発行)であるが、これもまたなんとも不思議な本である。何度読んでもよくわからないし、何が云いたいのかも私には全く理解できない。
そうは思うが、『玉すだれ』のルーツ説の根拠とされる大事な本である。
「玉すだれ」のルーツとされる部分(E.編竹(ササラ、俗に編み竹)」)を原文のまま紹介するので、解説して貰いたい。
《E.編竹(ササラ、俗に編み竹)
イ.色葉字類抄の鎌倉初期には筑と編木とを共にササラとよまして、二種類しか列挙して ないが、蓋 抄の文安三年(一四四六)には(編竹、編木、筑子)の三種類を挙げて いる。五ヶ山ではこれを(編み竹)と称して来たが、文安三年の室町中期にはササラと 訓ましている。》
これに続く(ロ)と(ハ)の文章は、編竹の作り方と使い方の説明だが、挿し絵もはいって、別人が書いたと思えるほど、非常にわかりやすい。しかし、玉すだれのルーツとは全く関係がないので今は省略する。
また(ニ)は、明治三十八年(一九〇五)日露戦勝祝いに演じた老翁から採集した語り文句(歌詞)が翻刻してあって貴重である。原文のまま記す。
《アー 雨が晴れたか虹橋かかる。このま虹にはサテ色がない。
アー 小野の東風の枝垂れの柳、落ちたドンビク亦とびつきやる。
アー 鯛は鯛でも身(肉)のない鯛ぢゃ、猫に食われてガラ骨ばかり。
アー 信州信濃の善光寺様ぢゃ、中に阿弥陀が坐らんばかり。
ホ.演技の初めにも、仰向ける様に四角の旧形に復するにも突く、撞き揃えるから、或は平 安時代から編竹はあったかも知れない。》
さて、この文章の解釈だが、(イ)は、
「鎌倉時代には二種類しかなかったササラも室町時代には三種類になった。五ヶ山ではこれを編み竹と呼んでいた」
という事か?
(ニ)の語り文句のうち、三番目が気になる。何故と言うに、五箇山は元来交通不便な場所にある。海の魚など滅多に見る事もできないほど山奥であるのに、最高級魚の鯛をそれも骨ではなく身を猫に食わせる(猫が骨を食い残すのも不思議な話だが)事が出来るとは、よほど豊かであったのだろうか。それとも新しい時代の息吹なのか。
最後の(ホ)が、またとんでもなく難しい。演技をしたり元へ戻したりする(と言う意味だろうと解釈した)ことと、平安時代からあったかも知れないという説明の間に、大事なものが抜けているのではという気がしてしょうがない。
編竹に関する説明(ロ、ハ、ニ)は、具体的でわかりやすいのに、歴史的な部分(イ、ホ)になると、何故かわからなくなるから不思議である。いずれにしろ、この全文を読んではっきりする事は、明治三十八年には「編み竹」が、存在していたと言う事だけである。
私は次のように考える。
1.羅宇屋(煙管のすげ替えを職業とする人)が、客寄せの手段とした。(=香具師)
すだれの竹は羅宇竹を利用。
2.乞胸(乞食)が人前で演じて投げ銭を乞う。(=乞胸)
3.すだれ自体を売る小商売として復活。(約六〇年ぶり)(=香具師または行商人)
すだれの竹は羅宇竹製。
4.すだれ状道具~南京玉すだれとして復活(約六〇年ぶり)(=寄席)
5.大道芸を代表する演目に成長。