大道芸通信 第101号


バナナの叩き売り
発祥地は本当に門司か?
門司港駅前から海と反対側に百㍍ほど歩くと、左側旅館の植え込みの中に「バナナの叩き売り発祥の地」碑がある。それが左の写真である。嘘か真事か、最近ではこの碑を根拠に、発祥説を唱える者さえあると聞く。しかし、この碑は町おこしの観光用であり、旧くは下関が発祥と云われていた。
《最近下関でバナナ売りがTV放送(「遠くへ行きたい」)に出てきたが、この発生は下関と言われ、明治三十七、八年頃、バナナは台湾のキールンから神戸に送るとき、関門海峡の潮の流れが強いためと石炭船のため、潮まちと石炭 水、食糧の補給と船員の休養のため寄港した。その時、船倉で少しいたんだのを(三流品)露店商が安く買い、アセチレン灯の下で口上をつけて売ったのが始めであるといわれている。そのタンカは、
「江戸で云うなら多摩川の、京で云うなら鴨川の、水にさらせし新玉の、今年のバナちゃんを買いなされ、色は少々青いけど、味は大和のつるしがき、一皮むけば雪の肌、小野小町じゃないけれど、照々姫じゃあるまいか、静御前じゃないけれど、行基菩薩の再来か、裏も表もつんつるてんのきんきらきん、こんなバナちゃんたべたなら、三年五年は長生きする、長生きするのは副笑い、さあこうた、さあこうた、お次のバナちゃんさあどうだ、ゆんべ風呂屋で見たような、となり近所の後家なかせ、さあこうた、さあこうた……」
というようなもので、これを棒でたたきながら、リズムをつけて面白おかしく身振りを入れて売っていたものであるといわれる。》(「香具師の成立と変遷」荒井茂雄(一九二五年生)著。『のせる』永井啓夫・小沢昭一編・白水社一九八二年八月刊 掲載)
尤も同書(『のせる』)には、20歳近く若い別の著者が書いた門司説をも載せている。そちらも紹介する。
《なお、バナナの叩き売りは明治末年、当時日本の植民地だった台湾からのバナナの荷揚げのはじまった北九州・門司港に発祥している。
「バナちゃんの因縁きかそうか生まれは台湾台中の、阿里山麓の片田舎……」
という出だしでバナナを擬人化し、植民地本国日本までの道行きを、ノゾキカラクリの口上風の節で唱うというもの。
現在、門司公民館館長の井川忠義さん(57)は若いころ、この「バナちゃんの唄」に魅せられて、テキヤの兄さんと一緒に、九州・中国各地のタカマチを廻ったとかで、数少ない伝承者の一人。
彼によると、荷揚げされるバナナが横に流れるようになったのは、輸送船の船員が、門司や下関の色街の女へのプレゼントにこっそり持ち出してきたのが最初。やがて荷受けの青果商の倉庫から、規格外れのものが二束三文でテキヤに流れるようになった。
テキヤはそれを、節つきのタンカで売り捌いたわけだが、この「バナちゃんの唄」をつくったのが、九州の佐賀だか鹿児島だかから人妻をたらしこんで逃げてきて、門司でテキヤ組織にやっかいになっていた、ちょっとヤクザないろおとこだったといういい伝えがあるそうだ。》(「香具師をめぐる都市・大道・民俗世界」朝倉蕎司(一九四三年生)著)
いずれが菖蒲杜若(あやめかきつばた)
下関と門司。果たして
どちらが正しいか?
現在は圧倒的に門司説が強い。だが、下関は明治三十七、八年と云い、門司は明治末年と云っている発祥期を「由来の記」は、大正初期と記す。挙げ句「由来せし」と伝聞風表記をしているのも気になる。何れにしろ次号以降で検証する。
門司港駅近くに建つ「バナナの叩き売り発祥の地」は、次のように記す。
バナナの叩き売り
発祥由来の記
昔しを偲べば、大陸、 欧州、台湾、国内航路の基幹と、九州鉄道の発着の基地点として大 いに発展した、ここ桟橋通りは往昔の絵巻の一こまとして、アセチレンの灯のにぶい光の 下で、黄色くうれたバ ナナを戸板にならべ、だれとはなしに産まれ 伝わる名セリフは大正初期~昭和十三、四年
頃まで不夜城を呈し、日本国中の旅行者の、目を楽しませた。バナナの叩き売りの風情は門司港のこの地桟橋通り附近を発祥の地と由来せし
昭和五十三年四月 日
門司港発展期成会
北九州市観光協会
オオジメ半生記(四)
石立て(不動金縛りの術)は、石が大きくてなるぺく高い位置に結びつけんといけん。そうすりゃはったりも聞くし、素人にゃ立てられん。
昔は舗装しとらんから、土の上へそのまま立てたわけです。けどそれやったら埋めとるとか云われだしたので、湯飲みを置いてその上へ立てるようになった。(湯飲みを伏せて、糸底に収まるような竹竿を利用)
すると、今度はゴト(理屈)が丸見えになった。
しかし、あれは元来人集めの一種だからミンサイ(催レ眠)でもやっとった。
ー確かに今でも人集めにはもってこいですね。しかし、竹とお皿(最近は湯飲みの変わりに皿を使うことが多いい)の接点ばかりご見られるようになりました。だから、五芒星や凡字を書いた布をお皿の上にかぶせたりしています。
それは面白いですね。
ところで、寅さんは、結核やって肺が片方なかったが、実は儂もそうなんです。左側がないんです。そういう事もあって(寅さんには)親しみをもっとった。
もっともあの人は俳優じゃが、儂は現実に本職としてやっとったわけじゃから。
寅さんそのものが浅草の芝居小屋でやっとったわけですから。目の前にテキヤが一杯いたわけじゃから。儂はやっとらんが、戦争後友達がやっとったから。その頃テキヤをしよった仲間などから、(タンカを)聞いたようです。
ーそういえば坂野比呂志、彼もテキヤをやったことあるんですか、多少は?
いや、彼は芸人だけです。だから全く芸が違います。
テキヤは芸じゃないけど、(テキヤは)本職じゃから。
しかし、本職を見せるようにした功績はたいしたものじゃ。舞台芸にしていったわけですよ、大道芸を。 それを小沢昭一当たりが認めて芸術祭賞を貰うことにつながったのでしょう。
その後桜井先生(=敏雄=最後のヴァイオリン演歌師、一九九六年二月没、享年八十七歳)も芸術祭賞を取る道筋となったのでしょう。あの人は京都の極東組の初代の若い衆だった。
彼は元来大阪(が本拠)なんです。それが戦後演歌で儲けて、東京へ出てきた。
昭和三十年頃に富山の祭へ行ったとき、(桜井敏雄が)来とるとゆうことでね。
オオジメシというのは、普通と違って目立つ(広い場所をとる)から、知らん顔もできん。
儂もオオジメシやったから挨拶に行った。そのときが初対面やった。
ほんなら、「どっから来たんや 」と云われ、広島ですと答えたら、「がんばれや」と云われたぐらいで早々に退散した。
三十ぐらいじゃったけえ、怖うなった、極東の親分が。
でも大した人物やったんでしょうね。大阪から東京へ行って有名になったんじゃから。
オオジメの話に戻ると、透視をする人が居った。
山伏の格好をして。白い布で目隠しするんじゃが、見えるといけんゆうて布の下へ紙を入れて、
「さあこれでなんにも見えんようになった」
そう云うんじゃが、実際は逆。紙は硬いから目との間に透き間が空いて、ちょっと練習すれば見えるようになる。
あとはタンカです。喋りが上手くなけりゃいけんが。お客さんが書いたことを皆当てるわけです。
或いは似たようなのに、神霊あぶり出しもおった。
「お客さんの思うた事は皆当ててやるから、何でもええ。思うたことを紙に書け」と。 これ位の紙に書かせるわけですよ。
「明日の天気はええか悪いか」とか。
「うちのお母さん病気で困っとるけえなんとかならんか」とか。
色んな希望を書かせて、皆答えてやるわけです。
書かしたあとは、
「誰が書いたか、わかったら悪いから」と云って、四つに畳んで「これに入れ」ゆうて箱廻すわけです。
書くための下敷きと鉛筆と紙渡して書かすわけです。そしてそれを(箱に)入れるわけです。
それを整理して、お客さんに読んでやるわけです。
そうして読んだのが皆当たるんです。当たると云っても、口でゆうたんじゃあ信用せんじゃろうからとゆうて、あぶり出しなんです。
墨で黒い字が出るんです。 昔の話じゃから、
「美空ひばりとなんとかならんか」と云うのがあったりすると、
「夢でも見とれ」と云うように、質問に応じた答えが浮いてくるわけです。
タネは簡単。オクリゆうて、全部で七枚配るんです
が、実際集めたら十一枚あるわけです。
四枚自分でつくっとるわけです。そこが芝居なんです。
いかに笑わかすかです。
上手にビックリしたような顔をして、お客さん笑かして、 さっきの美空ひばりのなんか、
「こんなの答えが出るわけないじゃないか。こりゃ後回し」
とかなんとか、云ったりして面白そうなやつは、ゲソ止め(足止め)に使ったりした。
いかに笑わすか、タンカとテクニックです。
そして最後に紙を売ったわけです。今でもタンカを変えてやったら面白いとは思うが、話術が難しい。儂も二人しか知らんが、二人とも大変上手かった、話術が。
大道芸講習会 今後の予定
●第一〇四回目
六月十九日(木)
●第一〇五回目
七月十七日(木)
時間・午後七時ー九時
場所・烏山区民センター 大広間(二階)
会費・一回五百円
編集雑記
帷子川から逃げ出したタマちゃんが次に現れたのは、埼玉県の中川だという。幸か不幸かタマが共通だから、埼タマオに改姓?(4/21各紙)
更に五月四日には荒川へ移動するも、顔に釣り針を引っかけた状態であった。(5/5各紙)